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新宮御宮御構之図(館蔵品1061)

新宮御宮御構之図(館蔵品1061)

blog館1061 新宮御宮御構之図(クリックすると拡大します)

【基本情報】
嘉永7年(1854)ごろ  紙本墨画 1舗   縦53.6㎝ 横74.0㎝

【内容】
熊野速玉大社(新宮)の境内にある建物の平面図。
多くの付箋がつけられ、嘉永7年に修造された建物の状況や費用が記されています。

それぞれの建物には黄色い貼り紙で、建物の名称と桁行方向、梁間方向の長さが記されています。
下部の付紙には、「本文赤紙附ヶ紙之分/御かなもの外満作ニ相成/有之事」
とあり、第一宮から第四宮と奥御膳三神殿には赤紙が貼られていますが、
これらは飾り金物以外は出来上がっていることを示しています。
また、それぞれの建物にも付け紙があり、修復にかかる費用、内訳が記されています。
本図の付け紙に記された修造にかかる費用は総額で288貫目となっています。

この図は、新宮本社末社図(熊野速玉大社蔵)とは概ね記載内容が一致するものの、
一部(一ノ宮後ろに点線で描かれた「御仮殿」の存在など)異なる情報が記されています。
blog社殿背後
同様に、『新宮市誌』所収の「嘉永年間造営社殿図」とも少し異なります。
blog嘉永年間造営社殿図(『新宮市誌』掲載)
そのため、嘉永頃のある段階の図面と思われますが、
速玉大社において社殿が修造された直後にあたる嘉永7年(改元して安政元年)11月には安政の大地震もあり、
計画変更などもあったことが予想されます。
それぞれの図面がどの段階のものなのかなど、これから細かく分析していく必要があります。

なお本図は、和歌山の郷土史家である吉備慶三郎氏の収集資料と思われます。


(当館学芸員 坂本亮太)

高野山細見大絵図(館蔵品1114)

高野山細見大絵図(館蔵品1114)


blog館1114高野山細見大絵図 (クリックすると画像は拡大します)
                   
【基本情報】
紙本墨刷 1舗  縦86.5㎝ 横167.4㎝   文化13年(1816)~嘉永3年(1850)刊

【刊記等】
袋・表「再刻/高野山細見大絵図/浪華 橘保春画/板元/永寧坊/成我堂/随古堂」
袋・裏「関宿/上村伴左衛門 主(印)/嘉永三戌年/六月吉日」
表紙(題簽「高野山細見大絵図 全」))
図上部の飾枠内に横書の内題「高野山細見絵図」
図右下部双辺枠内に奥書「于時文化十癸酉載七月吉辰/〈浪華〉橘保春行年六十四歳筆(刻印「保」「春」)」
図右下の双辺枠内に刊記「板元/高野山/山本平六/同/経師八左衛門/名倉市場/寄屋喜兵衛」

【内容】
高野山内を鳥瞰的に描いた木版刷りの絵図。
現在確認されている木版刷りの絵図なかでは最もサイズが大きいもので、。
数枚の板木に刷ったものを一枚に繋いでいます。
上部を北、下部を南、右を東、左を西にして、横長に高野山全体を描き、
山内の塔頭寺院(子院)をはじめ、参詣人や僧侶なども描いています。

本図右上部単辺枠内に「于時文化十癸酉載七月吉辰/浪華/橘保春行年六十四歳筆(刻印「保」「春」)」の刊記があり、
大坂の絵師である橘保春(1750~1816)が、文化10年7月に下絵を描いたことがわかります。
blog刊記1  (クリックすると画像は拡大します)
保春は橘保国の養嗣子となり、保国に画を学んだとされますが、詳しい事績は必ずしもわかりません。
保国の父が橘守国であり、狩野探幽の弟子鶴沢探山の門人であったといいます
(『高野山大学図書館善本叢書 第三巻 高野山大学図書館所蔵 高野山古絵図集成』)。
保春の作品として、これまで確認できるものとしては、
本図と構図が似た「高野山図屛風」(高野山赤松院蔵。図録『西行』(和歌山県立博物館)に掲載)、
本図制作の直前である文化10年5月に描かれた四天王寺に伝来する『聖徳太子絵伝』、
版本には享和3年(1803)刊行の『高野図会』
の挿図などがあります。
このようなことから、高野山と関わりの深い絵師なのではないかとも考えられています。

本図を入れた袋には、
「再刻 高野山細見大絵図」
「旧板雖世弘/摩滅又ハ寺院ノ/改号等不少依之/名所旧跡諸堂社/再寺名等/悉改称校正ノ図/令甫(補)刻者也」
「板元/永寧坊/成我堂/随古堂」
とあり、本図は再刻版であることがわかります。
blog高野山細見大絵図表紙袋  (クリックすると画像は拡大します)

また本図の右下の双辺枠内に
「板元/高野山/山本平六/同/経師八左衛門/名倉市場/寄屋喜兵衛」
の刊記があり、板元が山本平六・経師八左衛門・寄屋喜兵衛の3人であったこともわかります。
blog刊記2  (クリックすると画像は拡大します)
山本平六と経師八左衛門は高野山、
寄屋喜兵衛は高野山麓の名倉市場(橋本市高野口町名倉)を拠点としていたことが肩書からわかります。
西南院所蔵文書(口上覚、日野西真定編『高野山古絵図集成』掲載)によると、
「高野山大絵図株板木は、山本平六先年ヨリ所持仕リ、売リ弘メ居リ申候処、去ル酉年(文化10年)類焼之節焼失仕候」
とあり、もともと版権は山本文平が単独で持っていたようですが、
文化10年に類焼して板木を失い、単独では再刻できなかったため、
3人の連名で学侶・行人両方に再刻を願い出て、
行人方は同13年正月、学侶方は同年2月に許可された
という事情があったようです(『高野山古絵図集成』解説)。

以上から、本図は
文化13年以降に山本平六(永寧坊)・経師八左衛門(成我堂)・寄屋喜兵衛(随古堂)が板元となって、
文化10年の「高野山細見大絵図」を再刻したものと考えられます。

さて、本図に載る図像に着目すると、壇上伽藍大塔の裏に「穀屋」があることがわかります。
穀屋は、米など穀物を喜捨として集める勧進聖の拠点となる寺院で、寺院内ではおもに修造を担当していました。
江戸時代後期においても活動実態は不明ながら、穀屋が存続していたことがわかります。
blog壇上伽藍  (クリックすると画像は拡大します)

また、奥之院に「南龍院」、紀伊初代藩主徳川頼宣の石塔に関わる注記もある点も注目されます。
blog南龍院  (クリックすると画像は拡大します)
紀伊国で印刷されたため、意識的に載せられたのではないでしょうか。

細部に注目して、江戸時代後期の高野山の風景についても改めて検討していく必要がありましょう。

なお、再刻された本図の原図となった文化10年の高野山細見絵図については、
日野西真定氏所蔵のもの、高野山大学図書館所蔵のものなどが知られています。
なかには彩色を施したものもあり、各所で所蔵されています
(和歌山市立博物館編『江戸時代を観光しよう―城下町和歌山と寺社参詣』2014年にも個人所蔵本が掲載)。


【参考文献】
高野山大学図書館編『高野山大学図書館善本叢書 第三巻 高野山大学図書館所蔵 高野山古絵図集成』(高野山大学、2020年)
日野西真定編『高野山古絵図集成』(清栄社、1983年)
日野西真定編『高野山古絵図集成解説索引』(タカラ写真製版株式会社、1988年)
大津美月「高野山古絵図の研究―高野山大学所蔵本を中心として―」『密教学会報』49号、2011年)

(当館学芸員 坂本亮太)

日光社参詣曼荼羅(館蔵品1096)

日光社参詣曼荼羅(館蔵品1096)
blog館1096日光社参詣曼荼羅 (クリックで画像は拡大します)

【基本情報】
室町時代(16世紀) 和歌山県指定文化財 
紙本著色  1幅  縦148.7㎝ 横117.8㎝

(収納箱銘)「日光三社大権現三十八社御絵図入 願主小松弥助 平長盛」

【図版・解説】
和歌山県立博物館編『高野山麓 祈りのかたち』2012年
和歌山県立博物館編『弘法大師と高野参詣』2015年

【内容】
やや厚手の楮紙に鮮やかな泥絵の具で日光社(日光山)の景観を描いています。
近世まで日光社の祭祀に深く関わった小松家伝来の資料。
現状では掛幅装となっていますが、
もともとは未使用時には折りたたんでいたことが痕跡からわかり、
本来は縦八つ折、横四つ折にし、
折りたたんだ大きさはおよそ縦32㎝、横20㎝ほどとなります。
使用頻度は高かったようで折り目の角付近がいたみ欠損が大きく生じています。

画面上部には、三つの峰が描かれ、各々雲で区画されて、象徴的な印象を強めています。
画面上部左右両端には、各峰の注記と見られる墨消し部分がありますが、文字は不明。
画面中央に社殿5棟を描き、いずれも檜皮葺として描いています。
この5棟は瑞籬で区画され、中央に鳥居を配置しています。
瑞垣の外には、左方に多宝塔を、その前方に板葺の堂舎、小祠、鐘楼、茅葺・板葺建物などを描き、
神社・仏堂が混在する神仏習合の様相を呈しています。
さらにその下に、左側に堂舎と小祠を、中央に茅葺の建物6棟を配置し、最下部に川を描いています。
基本的には、右下部(川)より、中央社殿へ向かって視点は移動する構図となっているものと思われます。

描かれている総数41名の人物は、社頭では僧侶と神人のほか、
特徴的なのは瑞籬中央の鳥居の中に巫女です。
blog巫女
付近には湯釜も置かれ、湯立てをおこなっている様が描かれています。

瑞垣の外にも僧侶や神官が散見されるほか、
山伏などの宗教者や巡礼者、琵琶法師や説教師などの芸能者など、
聖俗の参拝者を描いて賑わいを表しています。
blog琵琶法師  blog説教師 
(琵琶法師)        (説教師) 

blog巡礼者 blog山伏  
(巡礼者)             (山伏)                 

ほかにも意味ありげな図像もあるものと予想されますが、
関連資料も少なく、まだ十分に読み解きができていない図像がたくさんあります。

日光社(日光山)は既に鎌倉時代(13世紀半ば)には、古文書に登場しており、
その頃より存在していたことは確かです。
・文永9年(1272)8月13日 阿弖河上荘上村臥田注文(又続宝簡集56)
・文永9年8月13日 阿弖河荘上村逃亡跡注進状(又続宝簡集78)
・文永10年6月12日 阿弖河上下荘出田配分注文(又続宝簡集56)
いずれも表記は「日光山」とあります。また、建長8年(1256)には荘園領主より土地が寄進され、
その土地は免田(年貢が控除される土地)であったことがわかります。
鎌倉時代以来、阿弖河荘内の重要な寺社だったようです。

さて、この絵図の成立年代と作成目的ですが、
応永年間(1394~1428)の社殿再興とかかわって、
勧進を行うために作成されたものと伝えられ、またそのように考えられてきました。
その根拠となっているのが、次の資料です。

寛政4年(1792)上湯川村「寺社御改帳」
「勧請由来不相知候へ共、古跡にて御座候、尤縁起・旧記等無御座、元禄御改、右之趣申上候、往古は七堂伽藍の霊場にて坊舎六院甍をならべ、阿帝川庄より石垣庄白岩まで敷地にて毎年祭礼の料を捧、恒例の祭礼をいとなみ申候処、応永年中に失火仕、本社は造営仕候へ共、堂宇坊舎再興相成日不申候、その節境内伽藍等絵図仕置、今に現在仕候、惣じて古跡顕然たる義に御座候」

ただし本図をみると、形式化の見られない伸びやかで自由な人物表現が、
清水寺参詣曼荼羅や長命寺参詣曼荼羅など16世紀に制作された参詣曼荼羅に通じ、
この参詣曼荼羅の制作時期もそのころと考えるべきではないかという意見もあります。
 
本図は参詣曼荼羅研究の上で早くから知られてきたもので、
熊野との関係について注目されてきましたが、あらめて細部を確認すると、
本図の瑞籬内の左側の建物は本来右下に描かれていたものが切断され現位置に貼られていることがわかり、
作画上のデフォルメを受けているとみられ、実際には拝殿などの建物である可能性があります。
そういった点も含め、祭神や祭祀の状況については
より近い高野山との関わりも視野に入れて検討するべきなのかもしれません。

まだ謎が多いのですが、日光社とともに湯川川流域の信仰の場も描かれ、
また小松家先祖とされる小松中将平維盛と想定されるモチーフがあるなど、
かつての阿弖川荘域の中世の一断面を活写している重要史料ということは間違いありません。

【おもな参考文献】
『清水町誌 史料編』(清水町、1982年)


(当館学芸員 坂本亮太)

根来寺境内絵図(館蔵品812)

根来寺境内絵図(館蔵品812)

blog館812根来寺境内図    blog根来寺境内図文字解読図(修正版)
(写真はクリックで拡大します)   (文字判読 ※『根来寺の歴史と文化財』を補訂)

【基本情報】
紙本著色 1幅   縦65.7㎝ 横89.2㎝  江戸時代後期(19世紀)

【図版・解説】
和歌山県立博物館編『京都安楽寿院と紀州あらかわ』(和歌山県立博物館、2010年)
真義真言宗総本山根来寺・根来寺文化研究所編『根来寺の歴史と文化財』(2009年)

【内容】
根来寺(岩出市)の境内の景観を描いた絵図。
江戸時代に再興された堂舎が描かれず、
大門や大伝法堂など江戸時代後期になってようやく再建された堂舎が描かれていることなどの特徴があります。
そういった点から、天正13年(1585)、豊臣秀吉による紀州攻めで伽藍が焼失する以前の
根来寺の様子を遡及的に描いたものと思われます。
このことは本図の左下部分には墨書からもうかがわれます。
「当山根来寺于時天正三年之比僧舎
 之数記之 衆徒・行人僧名合而 五
 千九百余人 坊屋衆行以下二千七百余舎
 凡東西二十町程」
とあり、天正3年の根来寺の堂舎数や僧侶の数、境内規模が記され、根来寺の隆盛ぶりを伝えています。
blog根来寺境内図書き込み (クリックで画像は拡大します)

山内の主要な堂塔ばかりでなく、おもだった院家の位置や名称をその跡地を含めて描き込んでおり、
院家名の脇には「学侶」「行人」の注記もあることから、
学侶方・行人方双方にわたる院家の位置を描いている点も特徴です。

特に注目される院家として、
 ・菩提谷 岩室坊(「政基公旅引付」、太郎兵衛講文書)
 ・小谷  千光院(太郎兵衛講文書)
 ・小谷  理智乗院(真福寺聖教)
 ・小谷  華蔵院(平野家文書)
 ・小谷  智積院(万徳寺聖教)
 ・蓮華谷 専識坊(「政基公旅引付」、中家文書)
 ・西谷  愛染院(宝珠院聖教)
 ・西谷  池上坊(太郎兵衛講文書)
などがあり、中世の史料に登場する谷名のわかる子院です。
杉坊も「政基公旅引付」に登場する坊院で、
本図は中世の実態をそれなりに反映している可能性が高いと思われます。

さらに、右端に記される学侶十輪院と行人実相院(絵図では「宝相院」)も注目されます。
blog根来寺境内図十輪院ほか (クリックで画像は拡大します)
大永4年(1524)三條西実隆は高野山へ向かう途中根来寺へも立ち寄っています(「高野参詣日記」)。
実隆は当初は十輪院に泊まる予定だったようですが、
十輪院は学頭で碩学の聞こえがあり、坊では灌頂が行われ、
翌朝も後朝の営みがあり騒がしいだろうということで、
弟子の実相院のところに泊まるようにと実隆は指示を受けています。
この絵図からもわかるとおり、十輪院と実相院は隣あっています。
隣り合う十輪院と実相院は、学侶と行人と寺内での立場は異なりつつも、師弟関係にあったこともわかります。

また、本図は山内の谷筋の表現がほかのどの絵図よりも明瞭というのも大きな特徴です。
本図によれば、山内の堂塔・院家は、東の菩提谷、西の蓮華谷・西谷、北の大谷・小谷
という谷筋に沿って立ち並んでいた様相がよくうかがえます。

この図であらためて注目したいのが、大伝法院と密厳院(不動堂)の前に描かれる「斛屋」です。
この「斛屋」は、寺院の修造を担った「穀屋」のことかと思われます。
根来寺にも穀屋のあったことが知られます。
blog根来寺境内図十輪院ほか blog根来寺境内図穀屋 (クリックで画像は拡大します)

近世の「根来合戦記」には、
不動堂穀屋の明王院、御廟所穀屋の奥之院、御影堂穀屋の円明寺、大伝法院穀屋の伝法院、
と4つの穀屋が見られます(『田尻町史』)。
現状、根来寺の穀屋について知りうるのはこの2点のみです。
穀屋が登場するのは、根来氏の由緒を記した部分でもあり、
本図の性格や成立を考えるうえで、
このような近世の由緒・軍記物との関係についても、改めて注目する必要があるのかもしれません。

なお、中世根来寺の坊院については、
坂本亮太「地域のなかの根来寺」(泉佐野の歴史と今を知る会編『連続講座報告集 今、明らかになる泉州・紀北の戦国時代』2018年)
海津一朗編『中世根来寺と紀州惣国』(同成社、2013年)
もあわせてご参照ください。

(当館学芸員 坂本亮太)

粉河寺四至伽藍図写(館蔵品1139)

粉河寺四至伽藍図写(館蔵品1139)

blog館1139粉河寺四至伽藍図写  (クリックすると画像は拡大します)

【基本情報】
紙本著色 1舗  縦131.1㎝  横57.4㎝  江戸~明治時代(19世紀)

【図版・解説】
和歌山県立博物館編『国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史』(和歌山県立博物館、2020年)

【内容】
粉河寺の伽藍と根本寺領である粉河荘の範囲(四至)を縦長の画面に描いた絵図。
粉河寺に所蔵される粉河寺四至伽藍図(縦134.3㎝×横59.1㎝、紀の川市指定文化財)
の精緻な写しでです。
粉河寺本については、中世における粉河寺境内と同寺領のあり方を考えるうえで
これまで広く注目されてきた資料で、もとは粉河寺北方の中ノ才・児玉家に伝来していましたが、
近年粉河寺に収蔵されていいます。
本図は、原本に薄い紙を重ねて敷き写したもので、
木々の配置や茂る葉の表し方などには相違もありますが、
建物・地形・注記などの画面情報は完全に一致します。
箱などの付属物はなく、写された経緯等についてはよくわかりません。

画面上部に「南紀補陀落山粉河寺四至伽藍之図」と記されています(籠字として「南紀」のみ墨で埋める)。
その下に葛城山脈の山並みを背に、粉河寺の伽藍が描かれています。
粉河寺への参道と中津川を縦軸の中心に、
粉河寺の境内と子院・堂舎(宗教施設)を詳細に描いています。
blog御池坊礼堂 (礼堂・御池坊周辺)
blog大門周辺 (大門周辺)

ただし、江戸時代に存在した子院や堂舎は描かれず、
東塔・西塔や法水院・学頭無量寿院などがあり、
天正13年(1585)の兵火以前の粉河寺の景観を描いたものと思われます。

周辺部においては、東は椎尾・水無川(名手川)・弁才天、
南は紀の川・龍門山、西は風市社・門川弁才天、北は葛城山脈を描き、
粉河寺が主張する正暦2年(991)の太政官符写の四至にほぼ一致し、
粉河寺領の領域を強く意識した構図となっています。

ただし構図的には、下丹生谷を粉河寺の真横に配置し、
一方の東野村などを中心の参道・中津川に寄せた関係で、
画面右下に広い空白部分を生じさせるなどの問題も生じています。
blog余白 (右下の余白)

本図には、165か所に及ぶ文字注記があります(※)。
 ※大高康正『参詣曼荼羅の研究』(岩田書院、2012年)で粉河寺本の文字注記が一覧表化されています。
文字注記と図像を見てみると、
「旧誓度院」とある一方、猪垣村に「誓度院」(「誓度寺」ではない)とあることから、
正長元年(1428)誓度院移転後の景観ということがわかります。
blog旧誓度院 blog誓度院

そのほか村名でみると、平安期の史料にのみ見られる「鎌垣東西村」、
『元亨釈書』にしか表れない「風市村」(少なくとも室町期以降は「松井(村)」)、
blog風市村
さらには戦国期になって初めて登場する「東野村(邑)」「藤崎」「井田村」「中津河村」
blog井田村東野村
などの表記・図像もあり、時代的には古代~戦国末までの情報が混在しています。
粉河寺と同寺領の盛時の景観を盛り込んで描いた絵図といえましょう。

「粉河寺旧記」記載の「粉河寺旧跡之覚」と一致する記述も多く、
「粉河寺旧記」のもととなる史料に基づきながら作成された可能性も考えられます。

なお、これまで本図の原図(粉河寺本)は室町時代とされてきましたが、
江戸時代以前の景観を描いているということ以外に時代を特定する明確な根拠はありません。
むしろ、「粉河寺旧記」や参詣曼荼羅との関連などから、
江戸時代初期頃に作成されたものとしておくのが良いのではないかと考えています。
さらなる研究の進展に期待したいと思います。

(当館学芸員 坂本亮太)

幡掛松幷鎌八幡図絵馬(館蔵品814)

幡掛松幷鎌八幡図絵馬(館蔵品814)

blog館814幡掛松幷鎌八幡図絵馬
(クリックすると画像が拡大します)

【基礎情報】
板面着色 1面  縦58.1㎝ 横85.8㎝
嘉永3年(1850)

(表面墨書)
「紀州[   ]/幡掛松幷鎌八□図」
「奉掛」
(裏面墨書)
「願主/高野山福智院宥伝/□(時ニ)嘉永三戌載(歳)正月」

【内容】
この絵馬は幡掛松と鎌八幡宮(いずれも現在の伊都郡かつらぎ町兄井に旧在)を描いたものです。
画面中央に大きな松とその枝にかかる白い幡、そしてそこに集う人々が描かれ、
左上方には櫟(いちい)の巨木をご神体とした神社が描かれています。
現在は顔料の剥落・退色が著しいですが、当初は金箔をおした金雲がたなびき、
余白には金の切箔がまかれた豪華なものだったと思われます。
裏面の墨書銘によると、
高野山福智院宥伝が願主として嘉永3年正月に奉納したものであることがわかります。

天保6年(1835)の仁井田好古撰「三谷荘兄井村鎌八幡記」によると、
鎌八幡のご神体は神功皇后が「三韓征伐」の際に用いたという幡と熊手で、
もとは讃岐国屛風浦(香川県多度津町)に祀られていたようですが、
弘法大師が高野山を開創した時についてきたため、
櫟の木を憑代(よりしろ)として祀ったものといわれています。
また『紀伊国名所図会』によると、高野山開創の際にしばらく松に幡が掛かっていたため、
幡掛松と名付けられたともいいます。

ご神体の幡と熊手は、長らく高野山に祀られていたようですが、
明治2年(1869)に鎌八幡宮に遷座し、
その後明治42年に鎌八幡宮が丹生酒殿神社に合祀された際、
丹生酒殿神社に納められたといいます(『和歌山県の地名』平凡社)。

鎌八幡の憑代である櫟の木には、
祈願のある者が鎌を打ち込むと、
祈願が成就する場合は木の幹の深くまで飲み込まれ、
成就しない場合には落ちると言われていました。
そのため江戸時代には門前で鎌を売る人、一回に1000挺打つ人などもあったようです。
珍しい習俗として知られていました(『紀伊続風土記』などにも記載あり)。

この絵馬は、こういった鎌八幡宮をめぐる信仰と伝承を描いたものといえます。
なお、鎌八幡宮は明治42年(1908)に丹生酒殿神社(かつらぎ町三谷)に合祀され、
現在は丹生酒殿神社の境内(裏手)に祀られています。
丹生酒殿神社境内には櫟の木が祀られ、無数の鎌が打ち込まれています。
blog鎌八幡現状
※現在は鎌の形をした絵馬を奉納しているようです。

(当館学芸員 坂本亮太)

明恵上人夢記断簡(三月五日夜の夢)(館蔵品1141)

明恵上人夢記断簡(三月五日夜の夢) (館蔵品1141)

明恵上人の夢記の断簡です。こちらも2020年度の新収資料です。

明恵上人夢記断簡(三月五日夜の夢)
(画像をクリックすると拡大します)

【基本情報】(『明恵上人夢記訳注』に準拠)
[年月日]某年三月五日
[体裁・行数]掛幅装(28.4㎝、22.6㎝)・11行
[自称]高弁 [人名]恵日房 [要語]本住、常居処、串柿 [挿絵]無

【釈文】
(端裏書)「栂尾明恵上人真蹟 夢之記」
  (前欠)
 候処ニ出テ、今ハカクソ可送本住
 ト思住歓喜、心覚了、
一 同三月五日夜夢、
  我々常居処予只在之《呼》
  高弁呼恵日房串柿ヲ《柑子》
  ヲ(ママ)取テ奉之、予心思ク、寝□
  十諸方ヲ枕ニスヘシ、アトニハ无
  礼也、恒ニ此処ニ在也ト思フ、恵
  日房戯レテ云ク、イタク此ナリ
  ナハ御料ハナラシトイフ、云ク聞
  之无礼ニ覚ユ、此○御居処我々
  (後欠)

《 》は抹消記号、○は挿入記号を表します。
※釈読にあたっては、明恵上人夢記研究会による検討結果も参考にさせていただきました。


明恵上人夢記の説明については、明恵上人夢記断簡(館蔵1065)もご参照ください。

明恵上人夢記研究会による『明恵上人夢記訳注』(勉誠出版、2015年)では、
夢記断簡類も74点が集成されていますが(そのうち1点は当館所蔵(館蔵1065)))、
この資料は『明恵上人夢記訳注』にも収録されていない新出の資料です。

この夢記断簡は、新しい桐箱に収納されています。
本文は全文で11行、年未詳で前欠・後欠のため、全貌や文意が不明な点もありますが、
3行目以降、明恵が3月5日夜に見た夢の内容が記されています。
現状では掛幅装に仕立てられ、端裏には「栂尾明恵上人真蹟 夢之記」との墨書があります。

夢の内容は、明恵が恵日房成忍を呼び串柿を与え、それに対し成忍が戯れで応答した、というものです。
この資料では、明恵自身が「高弁」と自称していることから、
承元4年(1210)以降に記されたものであることがわかります。

またこの夢記に登場する恵日房は、
明恵の弟子で画僧でもあった恵日房成忍のことと思われます
(平田寛「明恵の周辺―恵日房成忍と俊賀の場合―」『哲学年報』34号、1975年)。
成忍は、「明恵上人樹上坐禅図」などを描いたことでも知られています。
現状、夢記に成忍が登場するのは、この夢記のみで、その点でも極めて貴重なものとなっています。
成忍と明恵が近い関係にあったことも、この夢記からあらためてうかがわれます。
夢の舞台となった場所は、「本住」「常居処」「居処」とあり明確ではありませんが、
成忍が登場することから、京都高山寺の可能性を想定しておきたいと思います。

串柿と出てくるのも、早い事例かと思います。
『日本国語大辞典』「串柿」の項では、「庭訓往来」や「御湯殿上日記」などが類例として挙げられ、
そのほか柿に関する論文を見ても、「日蓮聖人書状」などが取り上げられており、
奈良時代の干柿が、鎌倉時代に入って細紐を必要としない串柿が普及したとされています
(川上行蔵「食物夜話―柿の話〈2〉―」『食生活総合研究会誌』2-2、1991年)。
そのため、串柿の初出史料か!とも思いましたが、
『平安遺文』を調べてみると、既に平安時代から串柿がありました
(康和4年(1102)3月10日 東寺御影供料足支配状、『平安遺文』4-1476)。
初出ではないのですが、早期の事例ということはできるかもしれません。
(串)柿の歴史についても、もう少し検討を深めていきたいと思います。
和歌山の柿の史料だったら、面白いと思ったのですが、
なかなか都合良くはいかないものです。

年代が不明で、なおかつ内容も正確に把握することが難しい点もありますが、
湯浅党出身の明恵による夢記の新出資料であるうえ、
恵日房成忍に関わる資料でもあり、興味深いものがあります。

なお、テキストの釈読、解釈については、明恵上人夢記研究会より、
ご意見をいただき、参考にさせていただきました。
ただ、少し読みを変えた部分もあります。
また明恵上人夢記研究会のほうでも成果を出していただけるようなので、
今後の研究の進展にも注目・期待したいと思います。

(当館学芸員 坂本亮太)

雑賀惣中中郷黒印状および閑月寺文書(館蔵品1142)

雑賀惣中中郷黒印状および閑月寺文書(館蔵品1142)

昨年度の新収集資料です。いずれもいわゆる新出文書です!

この文書群は、木箱に納められており、総点数14点を数えます。
内容は大きく、①中西氏あて文書(2点)、②閑月寺関係文書(9点)、③そのほか(3点)に分けられます。

①に関わる中西氏については詳細は不明ですが、
①のなかで特に注目されるのは、戦国時代の雑賀惣中中郷黒印状です。

雑賀惣中中郷黒印状
雑賀惣中中郷黒印状(クリックすると画像が拡大します)

【釈文】
去二月五日、於」川辺表、令合戦」殊一番鑓組打」御高名無比類御」働無申計驚入」申候、乍少分為」褒美青銅千疋」被相遣之候、
恐惶謹言、
      惣中
 三月五日  中郷(印)
中西善次郎殿参

雑賀中郷は、和歌山市東部の加納・岩橋・栗栖・和佐などを含んだ地域にあたります。
この文書は、厚手の楮紙を料紙とする折紙の感状(竪38.4㎝、横50.4㎝)で、
雑賀中郷が中西善次郎にあてて去2月5日の川辺(和歌山市川辺)合戦での戦功を賞するものとなっています。
また据えられた中郷の黒印は、「寶」をデザイン化したものとなっています。
中郷黒印
(中郷の黒印 クリックすると画像が拡大します)

川辺合戦については不明ですが、川辺は紀の川北岸にあたり、
付近に川辺王子・中村王子があるなど熊野道が通る交通の要衝となっています。
天正5年(1577)の信長の雑賀攻めに関わるものとみたいところですが
(実際に2月末~3月上旬には信長軍が雄山峠を越えて川辺を通過し雑賀へ向かったと考えられます)、
信長が雑賀攻めに京都を発つのは2月13日なので、残念ながら時期が合いません。

雑賀衆に関わる印判状としては、
・三上郷の黒印状(和歌山県指定文化財 願成寺文書(間藤家文書のうち))、
・雑賀足軽衆惣中の黒印状(真観寺文書)
が現在知られています。
雑賀では様々な社会集団が黒印を使用してたようで、この文書もその一例となります。
中郷に関わる黒印状はこれまで知られていないもので、極めて貴重といえます。
なお、中西家は江戸時代・寛保2年(1742)においても存在・活動が確認できます。


②に関わる閑月寺は、紀の川市貴志川町前田に所在した寺院です。
『紀伊続風土記』貴志荘前田村の項に、
「真言宗古義京勧修寺末、本村の西にあり」
とあるのみで、詳細は明らかではありません。
この文書群を調べてみると、
閑月寺は万治元年(1658)~同2年の間に前田若右衛門によって建立され、
貞享3年(1686)春盛宥仙建立の堂が享保2年(1717)に閑月寺付となり、
その後、宝暦6年(1756)には京都勧修寺の末寺となり、
明治6年(1873)に無檀家のうえ、度重なる大風雨により廃寺になったことがわかりました。
現在、宗教法人として閑月寺は残っていませんが、お堂自体は残り、
千手観音立像・毘沙門天立像が残されているようです(『貴志川町史』第3巻)。
遺状覚
遺状覚(クリックすると画像が大きくなります 釈文省略)

現在残るという千手観音立像・毘沙門天立像は、
ここに掲載した遺状覚などに記される閑月寺の什物と対応します。
そのほか江戸時代における閑月寺の什物一覧や明治時代の廃寺関係史料などもあり、
寺院の動向、現地に残る仏像などの来歴もわかり、
貴志川流域の寺院の歴史を跡づけるものとして重要です。

ただし、 閑月寺と中西家の関係性、
なぜ中西家あての雑賀中郷の古文書がこれら文書群と一緒に残されたのかなどは、
今のところ残念ながらわかりません。もう少し考えていきたいと思います。

まだまだ検討課題の多い資料群ではありますが、
少しずつ研究を深めていきたいと思いますし、また是非ご検討・活用いただけましたらと思います。


(当館学芸員 坂本亮太)

企画展「祈りと学びの山―高野山大学図書館の名宝とともに―」参考文献

企画展で展示している資料の参考文献をご紹介します。
より詳しく知りたいかた、図版などを見たいかたは、こちらをご確認いただけましたらと思います。

1  高野山秘記
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)
※テキストは『真福寺善本叢刊9 中世高野山縁起集』(臨川書店、1999年)

2  高野山記(館蔵)
 → こちら

3  高祖大師秘密縁起(館蔵)
・『紀州史絵物語―歴史資料としての絵画作品―』(和歌山県立博物館、1994年)
・『きのくにの歴史と文化 和歌山県立博物館館蔵品選集』(和歌山県立博物館、2004年)
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)

4  高野翰墨雑集幷後集
・『定本弘法大師全集』第7巻(高野山大学密教文化研究所、1992年)
・『高野山開創と丹生都比売神社―大師と聖地を結ぶ神々―』(和歌山県立博物館、2015年)

5  遺告二十五箇条(館蔵)
 → こちら

6  遺告二十五箇条
※『和歌山県紀の川市真言宗御室派 安楽山興山寺蔵聖教目録』(平成15~18年度科学研究費補助金「和歌山県所在真言宗寺院所蔵文献の国語史的研究」(研究代表:山本秀人))

7  御遺告真然大徳等(館蔵)
 → こちら

8  弘法大師御手印縁起
・『定本弘法大師全集』7巻(高野山大学密教文化研究所、1992年)

9  弘法大師御手印縁起(館蔵)
 → こちら

10 大毘盧遮那成仏経疏 第三
・『田辺・高山寺の文化財』(和歌山県立博物館、2008年)
・『弘法大師と高野参詣』(和歌山県立博物館、2015年)
・『和歌山県田辺市真言宗御室派 南面山高山寺蔵聖教目録』(平成15~18年度科学研究費補助金「和歌山県所在真言宗寺院所蔵文献の国語史的研究」(研究代表:山本秀人))

11 弁顕密二教論 上下(館蔵)
12 般若心経秘鍵(館蔵)
13 吽字義(館蔵)
14 即身成仏義(館蔵)

 → こちら
※江戸時代の高野版の角筆については、武内孝善「角筆がみられる祖典」(『密教学会報』51号、2013年)も参照。

15 梵字悉曇字母幷釈義(館蔵)
 → こちら

16 梵字悉曇字母幷釈義(館蔵)
 → こちら

17 蘇悉地羯羅経
・『善本聚粹』1(高野山大学附属高野山図書館、1996年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・大山仁快「蘇悉地経に関する一考察」(『密教文化』140号、1982年)
・曽田文雄「訓点語彙―高野山光明院蔵蘇悉地羯羅経承保元年点―」(『訓点語と訓点資料』8号、1957年)
・武内孝善「高野山大学図書館・光明院文庫蔵典籍文書目録(一)」(『高野山大学論叢』40号、2005年)

18 別尊雑記 巻14(館蔵)
 → こちら

19 秘蔵宝鑰愚草 上
・大山仁快「高野山現存の古聖教」(『印度学仏教学研究』30号、1967年)

20 宝鏡鈔(館蔵)
 → こちら

21 金剛界伝法灌頂作法
・『善本聚粹』1(高野山大学附属高野山図書館、1996年)

22 巻数案

23 山王院竪義法則
※山王院の竪精については、『初公開!高野山の御神宝』(高野山霊宝館、2015年)参照。

24 涅槃講式
※朝意については、『尾道西國寺の寺宝展』(広島県立歴史博物館、2002年)参照。

25 十住心論聞書
・土井光祐「高野山大学所蔵(金剛三昧院寄託)「十住心論聞書」について」山本秀人編『和歌山県所在真言宗寺院所蔵文献の国語史的研究』(科研費調査報告書、2007年)

26 東山往来
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・山内潤三「応永十一年書写本「東山往来」―解題・翻刻・校異―」『高野山大学論叢』8号、1973年

27 漢朝皇代記
・『高野山大学図書館蔵 善本撰集』(高野山大学図書館、2013年)

28 倶舎論音義
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・西崎亨『倶舎論音義の研究』(思文閣出版、2010年)

29 稲荷記
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・『稲荷大社由緒記集成』信仰著作編(伏見稲荷大社社務所、1957年)

30 八幡愚童記 ※八幡愚童訓とも
・『善本聚粹』1(高野山大学附属高野山図書館、1996年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
※本文は、『日本思想大系20 寺社縁起』(岩波書店、1975年)など参照。

31 太神宮参詣記 下
・『善本聚粹』1(高野山大学附属高野山図書館、1996年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・『神道資料叢刊二 太神宮参詣記』(皇學館大学神道研究所、1990年)

32 麗気聞書
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・『神道大系 論説編 真言神道(上)』(神道大系編纂会、1993年)

33 密言(ささめごと)
・『善本聚粹』1(高野山大学附属高野山図書館、1996年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
※本文は、『日本古典文学大系66 連歌論集俳諧論集』(岩波書店、1961年)など参照。

34 大毘盧舎那成仏神変加持経
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・武内孝善「高野山大学図書館・光明院文庫蔵典籍文書目録(一)」(『高野山大学論叢』40号、2005年)

35 胎蔵秘密略大軌
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・小林芳規「寛平法皇の訓点」(『国語と国文学』59-3号、1983年)
・石上英一・厚谷和雄「胎蔵秘密略大軌(口絵)」(『東京大学史料編纂所報』19号、1984年)
・武内孝善「高野山大学図書館・光明院文庫蔵典籍文書目録(一)」(『高野山大学論叢』40号、2005年)
 → 画像・釈文は、高野山アーカイブをご参照ください。

36 曼荼羅集 下
・『善本聚粹』2(高野山大学附属高野山図書館、1998年)
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)

37 略念誦作法

38 金剛界恒例彼岸廻向道俗結縁過去帳
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)

39 表白集 第二
・山本真吾「高野山大学図書館蔵『表白集』巻第二の訓点について」(山本秀人編『和歌山県所在真言宗寺院所蔵文献の国語史的研究』科研費調査報告書、2007年)
・牧野和夫「鎌倉初・前期成立十二巻本『表白集』伝本の基礎的調査とその周辺(1)・「類聚」ということ―附、知見新出安居院系唱導書類の紹介並びに補記数條―」(『実践国文学』35号、1989年)

40 印信 法務御房集
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)
・武内孝善「『印信 法務御房集』の研究―(一)解題・本文校訂・影印―」(『高野山大学密教文化研究所紀要』18号、2005年)
・武内孝善「高野山大学図書館・光明院文庫蔵典籍文書目録(一)」(『高野山大学論叢』40号、2005年)

41 金剛夜叉明王像
・『高野山大学図書館蔵 善本撰輯』(高野山大学図書館、2013年)

42 金蓮院灌頂壇図


(当館学芸員 坂本亮太)

スポット展示「新春を祝う―南紀男山焼の優品、染付松竹梅図大徳利―」(令和2年12月25日~令和3年1月24日)

スポット展示
「新春を祝う―南紀男山焼の優品、染付松竹梅図大徳利―」
会期:令和2年(2020) 12月25日(金)~令和3年1月24日()
会場:和歌山県立博物館 2階学習室スポット展示コーナー

まもなく令和3年。
館蔵品の中から、新しい年を迎えるのにふさわしい作品をご紹介いたします。

「南紀男山焼 染付松竹梅図大徳利」(なんきおとこやまやき そめつけしょうちくばいずおおとくり) 1口 
                                     江戸時代(19世紀) 和歌山県立博物館蔵
DSC06049_1.jpg
※画像はクリックすると、拡大します。

 高さ40㎝をこえる大きな徳利は、現在の日常生活ではほとんど目にすることはありません。
このような大きな徳利は、酒や醤油などの液体を保存するために用いられたといいます。
しかし、本作は見事な球体状の胴部をもつ造形や、良質の顔料を用いて描かれた精巧な絵付けから実用の品ではなく、
鑑賞を目的とした調度品としてつくられたと考えられます。

 球体状の胴部分に、見事な枝振りの松と梅を対角線上に配し、腰から下には拡大した竹の葉と枝が染付で描かれています。
よく見ると松は、和歌山城下の南に位置する高松の風致として名高い、
根が地上高くに露出した所謂「根上り松」風に表現されています。
DSC06028_1.jpg
※画像はクリックすると、拡大します。

 古来、中国では松竹梅の組み合わせは「歳寒三友」(さいかんさんゆう)と呼ばれ、
寒さの厳しい冬であっても美しい色を保つ松や竹、美しい花をつける梅を変わらぬ友情に喩えたり、
困難にあっても屈しない清雅な姿を讃えるなど、文人たちに詩画の題材として好まれました。
 次第に今日知られているように縁起物として捉えられるようになり、
器面いっぱいに枝を広げる梅と松に竹の葉をあしらう本作は、いかにもめでたい印象を与えます。

底面には、文政10年(1827)に有田郡広村(現在の有田郡広川町)の
男山南斜面に開かれた男山陶器場で製作されたことを示す「南紀男山」の銘に加え、
水引や紐細工を思わせる模様が描かれています。
これは仏教の思想に由来する吉祥紋様を組み合わせた八喜祥(八宝)の第八品にかぞえられる
盤長(ばんちょう)をあらわしたもので、連綿不断や長久不断を象徴する意匠として
中国では工芸や建築、調度など様々なものに用いられています。
DSC06027_1.jpg


南紀男山焼では、底面に盤長を描く作例は他に東京国立博物館所蔵のものをはじめ、
本作と同工の作品のみに確認されており、
特定の商品のロゴマークのようにつかわれている点が興味深いといえましょう。

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DSC06053_1.jpg
※画像はクリックすると、拡大します。

上の3枚の写真は、すべて「染付松竹梅図大徳利」です。
鑑賞する角度をかえることで、大ぶりな図柄の見え方が次々とかわるところもこの作品の魅力です。
写真撮影も可能ですので、ぜひ実物をご覧になってお気に入りの角度を探してみてくださいね。
DSC06048_1.jpg

DSC06038_1.jpg

開催中の企画展「屛風の美-収蔵品の名品から-」(~1月24日)と共にぜひお楽しみくださいませ。

(学芸員 新井美那)



 

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