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加納信員軍忠状写(館蔵品1055 紀伊藩士加納家資料のうち)

加納信員軍忠状写(館蔵品1055 紀伊藩士加納家資料のうち)

今回は少し違った角度の史料をご紹介します。
紀伊藩士に、加納(大隅守)家という家があります。
そのご子孫のかたより寄贈されたもののうちの一つです。

加納大隅守家は、江戸時代初期には禄高2000石で、後に加増されて、
明治2年(1869)には4500石となり、紀伊藩のなかでも上級藩士に相当する家臣です。
和歌山城下町の絵図などによると、加納(大隅守)家は和歌山城の東側に屋敷を構えていました。
加納(大隅守)家は、系図や系譜によると松平家に始まり、
直恒が家康の命で加納久利の養子となり、慶長16年(1611)以降頼宣に仕え、
元和5年(1619)に頼宣とともに紀伊に入国し、紀伊藩士となりました。

紀伊藩士加納家資料は、古文書や絵画、工芸品など313点が残されています。
いずれも江戸時代以降のものですが、次に紹介する中世文書の写しが含まれていました。

加納信員軍忠状写

【釈文】
  小笠原兵庫助政長代加納四郎太郎信員・同六郎
  助延申軍忠事
右於去九月十八日美濃国揖斐野合戦致先懸
軍忠畢、同十月五日追落糟河山池戸之城郭、
同六日責登瀧尾至鎌倉山之峯、為先陣打落
所々、御敵焼払矢倉陣屋畢、同廿日於木戸
之尾致合戦之処、被疵信員家人助次郎畢、
同廿五日責入池戸焼払下狩宇・上狩宇二ヶ所之
城郭、助延分捕堀部太郎兵衛尉畢、将又自
九月十五日至十月廿六日令勤仕昼夜所々之
役所者也、
御見知分明上者、為後証可賜御判候哉、恐惶謹言、
  建武四年十月廿六日     大江信員判
         承り花押
御奉行所


この史料は、『平凡社 歴史地名体系 岐阜県の地名』の「伊尾野村」の項で、
「揖斐記」(徳川林政史研究所所蔵)に引用されていることが触れられています。
また、未確認ですが、大江信員軍忠状写(『岐阜県歴史資料館所在史料目録 第6集 谷家文書目2805)
も同様のものと思われます。そういった点では、既知の史料のようです。
ただ、活字化されたものがあるのかどうか、確認できていません。

この史料は、紀伊藩士加納家にとって、先祖の活動を伝える(由緒を物語る)もの
として、写し伝えられてきたものと思われます。
この史料を用いた関連論文・紹介された刊本等は見つけられていませんが、
南北朝初期の美濃地域の戦乱を伝える史料として、重要な史料でしょう。

紀伊藩士のなかには、このように他地域(和歌山県外)の中世文書(写しなども含む)
を所蔵している場合が、まれにあります。
そしてそういった文書は、和歌山県(紀伊国)に直接関わるものではないため、
当館の展示で紹介することもほとんどなく、
また当館の館蔵品目録でも「紀伊藩士加納家資料」として埋もれてしまう場合もあります。
そこで、写しであるのですが、南北朝時代の研究や
岐阜の地域史を研究されているかたに知っていただきたく、
敢えて紹介してみました。


(当館学芸員 坂本亮太)

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