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畠山稙長書状・丹下宗衒書状(館蔵品1006)

館蔵資料のうち、特にまだ図録等で紹介できていない中世文書について
随時紹介していたきたい思います。

館蔵品1006 畠山稙長書状・丹下宗衒書状

戦国時代に紀伊国守護をつとめた畠山稙長(1504~45)とその奉行人丹下宗衒の書状2通を一巻にしたものです。

畠山稙長書状
(1 畠山稙長書状)

覚悟之趣、厳重被」申事、尤祝着候、就其」両三人一紙感悦候、」従是モ三人同前申、」弥此時入魂肝要候、」猶丹下備後入道・曽我」治部可申候、恐々謹言、
八月十日  稙長(花押)
   湯河宮内少輔殿

丹下宗衒書状
(2 丹下宗衒書状)

乍御返事御懇示給」本望候、仍宮内少輔殿無二」御覚悟、殊御家中御一味」之段、尤肝要候、被仰送之」趣、同心以直書被申候、然者」弥各被相談、御馳走可為」専一候、面向別紙申候、委曲」遊新可有伝語候、猶御」使者へ申候、恐々謹言、」
  八月十日  宗衒(花押)
  林次郎左衛門尉殿 御宿所

1 畠山稙長書状は、8月10日に畠山稙長が湯河宮内少輔(光春)に宛てたもの。
内容は、畠山稙長からの依頼に対し、湯河一族が協力する旨の返事を出したことへの礼状となっています。

2 丹下宗衒書状は、1を受けて、同日に丹下宗衒(備後入道)が林二郎左衛門に宛てた文書です。
内容は、1と同様、湯河氏に「御家中御一味」するよう要請したところ、
湯河氏側から直書で協力する旨の返事が返ってきたことへの礼状となっています。
宛先にある林氏は、湯河氏の被官のうちの一家と思われます。

1 畠山稙長書状は、『下津町史』史料編上(p.239)に中尾家文書として、
2 丹下宗衒書状は、『下津町史』史料編上(p.239)に林家文書として
翻刻掲載されています。
『紀伊続風土記』によると、道湯川村(田辺市)の旧家湯川与兵衛の項に、
「畠山稙長より湯川宮内少輔宛の書状、宗徹より林治郎左衛門尉宛の書状二通を蔵む」
とあり、本文書ももとは、道湯川村の湯川家所蔵であったようです。
ただし、『下津町史』で紹介される林家文書・中尾家文書との関係はよくわかりません。

なお、2の差出として名を記す丹下備後入道(宗衒)は、
①永正14年(1517)に中尾家文書(『和歌山県史』中世史料二、「丹下宗衡」と翻刻される)
②野上野荘今畑村六右衛門蔵文書(『紀伊続風土記』、「丹下入道宗判」とあり)
にも名前が見えます。
このように各種本によって、「宗衒」「宗衡」「宗徹」などと読まれていますが、同一人物と思われます。

天文7年(1537)頃、畠山稙長は紀伊国に在国し、山陰地方の尼子氏とともに上洛を企て、
河内へ兵を進めようとしていました。
その計画に湯河光春も関わっていました(弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』など)。
この2通の文書は、稙長の河内出兵・上洛計画のなかで出された文書と思われます。
畠山稙長と湯河一族との関係を具体的に示す点が興味深く、
また、丹下宗衒書状には、「御家中御一味」とある点も注目されます。
湯河氏が「家中」と呼ぶ組織を有していたこともわかります。

近年、本文書2通は新谷和之さんの論文でも取り上げられています。
新谷和之「十六世紀中頃の紀伊の政治情勢と城郭―湯河氏の動向に焦点を当てて―」
(『文献・考古・縄張りから探る 近畿の城郭』戎光祥出版、2019年)。
興味あるかたは、ご参考にしていただけたらと思います。

(当館学芸員 坂本亮太)
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