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2回目のミュージアム・トーク(展示解説)をおこないました。

12月20日(土)、13時30分から14時30分まで、企画展「新収蔵品展」の2回目のミュージアム・トーク(展示解説)をおこないました。

前回よりも参加者はやや少なかったのですが、比較的暖かい一日でもあったためか、年末のお忙しい時期にもかかわらず、8名の方々に、ご参加いただきました。
皆さま、まことにありがとうございます。

12/20展示解説風景
    画像クリックで拡大します

今回は、解説中にご質問やご意見を聞かせていただく機会も多く、和気あいあいとしたアットホームな雰囲気での展示解説となりました。

はじめは、比較的少人数でおこなわれたこともあり、ご参加いただいた方々が途中で帰りにくく、時間を拘束してしまうのではないかと心配したのですが、いざ、解説をはじめてみると、皆さま、じっくり解説を聞いてくださり、予定時間の解説が終わってからも30分くらい色々なご質問をいただきました。ありがとうございます。

参加者の方のおひとりは、「直接、学芸員に質問できてよかった。」とおっしゃっていました。

学芸員としましても、皆さまのご意見を、直接おうかがいする貴重な機会でしたし、とても勉強になったひとときでした。

今後は年末年始をはさみますので、次回のミュージアム・トーク(展示解説)の日程は以下のとおりです。

◇平成21年(2009)1月17日(土)

時間は13時30分?14時30分

年始のお忙しい時期ではございますが、次回も、皆さまのご参加を、心よりお待ちいたしております。(学芸員 安永拓世)



企画展 新収蔵品展
和歌山県立博物館ウェブサイト
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[C15] 桑山玉洲と桑山重晴

12月20日のミュージアムトークに参加してくださった方から
以下のようなご質問をいただきました。

> さて、一つお尋ねしたいことがあります。
> 文人画家の桑山玉州という人物についてですが、和歌山城の城代を務めた
> 桑山重晴(?)と関係があるのでしょうか?
> 桑山氏が城代を努めたころの記録が殆ど無いと以前本を読んだ覚えがあるのですが、
> そうなのでしょか?研究はされているのでしょうか。
> 竹田城にもいたそうですが、小生も以前登ったことがあります。
> 難攻不落な城から和歌山に来た経緯を知りたいのですが。。。。。。

まず、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう、1746~99)が
桑山重晴(くわやましげはる、1524~1606)と関係があるのかというご質問ですが
玉洲の子孫である桑山家に伝わった「桑山家系図」によると
関係があるようです。
「系図」では、家祖の重晴から数えて5代目の昌隆のときに和歌浦に移住し、
玉洲はそれからさらに5代後であると伝えられています。
ただし、新庄町歴史民俗資料館編『桑山一族の興亡』(2001年)の図録によると
玉洲は8代目の子孫とされています。
(しかし、玉洲は廻船業や両替商を営む富裕な商家の出身であり、
「系図」で述べられているような直接的な関係があったかどうかについて、
はっきりしたことは、よくわかりません。)

次に、重晴が和歌山城にいたころの記録についてですが
たしかに、ほとんど残されていないようです。
『和歌山市史 第1巻 自然・原始 古代・中世』(和歌山市、1991年)
『和歌山市史 第4巻 古代・中世史料編』(和歌山市、1977年)
『和歌山県史 中世史料二』(和歌山県、1983年)
などに若干史料が掲載されています。
ご参照ください。

つづいて、重晴の研究についてですが
播磨良紀「桑山重晴について」(『和歌山市史研究』12、1984年)
播磨良紀「再び桑山重晴について」(『和歌山市史研究』15、1987年)
田中慶治「桑山一族の興亡」(新庄町歴史民俗資料館編『桑山一族の興亡』、2001年)
などが挙げられるかと思います。

最後に、竹田城から和歌山へ来た経緯についてですが
重晴は、天正13年(1585)の秀吉の紀州攻めに際して、
羽柴秀長の配下として雑賀・根来攻めに参加し、
その後、一時、岸和田城へ入ったのち、
和歌山城代になったようです。
紀伊国の領主となった秀長が、大和郡山城に在城したため
重晴は、その城代として和歌山城に入ったようですが、
先に述べたように、重晴と和歌山とのかかわりを示す史料が少ないため
実際には、重晴も大和郡山に滞在することが
多かったのではないかとの指摘もあります。
(『和歌山市史 第1巻 自然・原始 古代・中世』)

以上、じゅうぶんな回答にはならなかったかもしれませんが
少しでも、ご参考になりましたら幸いです。(学芸員 安永拓世)
  • 2009-02-17
  • 和歌山県立博物館
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