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「広浦往古ヨリ成行之覚」を読む

企画展「海の国・わかやま」で紹介している古文書について、内容を詳しく紹介したいと思います。
というのも、博物館の展示で紹介できるのは、冊子の場合、見開きのみとなり、
また解説文の内容も限られることから、ストーリーなど、その面白さを十分に伝えることが難しく、
結構素通りされてしまうことが多いからです。

今回は「広浦往古ヨリ成行之覚」(広川町教育委員会所蔵)という、
広浦(和歌山県広川町)の漁師稼ぎの変遷について述べた古文書をご紹介致します。

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(「広浦往古ヨリ成行之覚」)

(本文)
一広浦之儀ハ、寛正年中畠山家被領候而、広之内
 名島山と浜際と両所へ城を被築、浜浪打際へハ
 三百間余之浪除石垣等成就仕候而、初而町割等
 出来仕候故、追々家居多く相建、賑々敷繁昌仕候、

(内容)
広浦は、寛正年中(1460~66)に紀伊国守護であった畠山氏が支配していて、
広の内、名島山(広城)と浜際(畠山館)とに城を築いていた。
浜の波打ち際には、300間(約545メートル)の浪除け石垣を築き、
初めて町割を施し(街路の施工をし)たため、徐々に家も多く建てられ、
賑やかになり、繁昌するようになった。

広村堤防  養源寺と堀
(広村堤防)                  (養源寺の堀)


(本文)
 其後、畠山家没落之後、日高郡小松原城主湯川
 家此所ヲ被領候、其頃者名島山之城潰レ無之候得共、
 広浜之儀ハ、湯川家被領候節も御座候故、広町ハ
 繁昌仕候処、

(内容)
その後、畠山氏が没落し、
日高郡小松原(御坊市)の城主であった湯川氏が広浦を支配することになった。
その頃には、名島山(広城)は潰れていたが、
広浦の浜の方は湯川氏が支配していた時も繁昌していた。
しかし、天正13年(1585)に(羽柴秀吉の紀州攻めで)湯川氏が没落し、
広浦(町)の家々も大半が焼失した。
 *ここら辺の事情については、平成26年度春特別展『きのくにの城と館』(和歌山県立博物館)をご参照ください。

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(本文)
 天正十三年湯川家没落之節、広
 町家居も大半焼失仕候、就夫、天正之末ニ至り、広町
 殊之外難渋と相成、此所ニ而渡世成兼申候ニ付、思ひ思ひ
 諸国へ漁師稼ニ罷越申候、其比ハ西国を専ニ稼、
 薩摩・肥前・日向・大隅、右国々浦々江罷越、春夏
 秋冬其浦々之諸魚之寄旬を追而漁稼仕、
 此国此浦居エ浦と不相定、其年々漁船ニ乗、国
 元へ往来仕候処、右国々稼場所も年々及不
 漁ニ候故、稼場所を引取、

(内容)
天正末年頃(1590年頃)には、広浦はことのほか生活をしていくのが苦しい場所となり、
広浦に住んでいては生活が難しいので、皆思い思いに諸国へ漁師稼ぎに出かけた。
その頃は西国へ専ら稼ぎに出かけ、
薩摩(鹿児島県)・肥前(長崎県)・日向(宮崎県)・大隅(鹿児島県)の国々浦々へ出かけ、
春夏秋冬、季節に応じて各浦の旬の魚を追い求め、漁師稼ぎをしていた。
その時には、「居浦(すえうら)」を定めず(他国の浦へ土地を借りて一定期間住むことはせず)、
その年々の漁船に乗り、広浦と往復をしていたところ、漁に出ていた先が不漁になり、
稼ぎ場所から引き上げることになった。

(本文)
 其後ハ近国泉州・
 灘、或ハ熊野辺浦々へ罷越候処、是以不漁仕候付、
 夫ヨリ駿州・遠州・豆州辺浦々江立分罷越、又
 其後ハ常陸国陸原と申所へ行初右常陸原と申
 浦を先ツ居エ浦と仕候而、夫ヨリ相州・房州・上総・
 下総、右国々浦々エ罷越、稼仕候而、八手網、ま
 かせ網と申鰯網を始仕候、

(内容)
その後、近場の泉州(大阪府南部)・灘(兵庫県)や熊野辺りへ漁に行っていたが、
そこも不漁になったので、それからは駿河・遠江・伊豆(いずれも静岡県)へと分かれて行き、
その後は常陸国(茨城県)へ行き、
「常陸原」という場所を「居浦(すえうら)」と決めて(一定期間土地を借りて住むことに決めて)、
さらに相模(神奈川県・)・安房(千葉県)・上総(千葉県)・
下総(千葉県・茨城県・東京都・埼玉県)の浦々へ漁に行き、
稼ぎ場としていた。その時に、八手網・まかせ網というイワシ網を始めた。

(本文)
 慶長三初比ハ広
 浦より関東・西国へ罷越候網数八十帖御座候、
 家数ハ往古千三百軒も有之候得共、天正十三年
 之大火事後ハ、漸々千軒計リニ相成リ申候、右八
 十帖之網、壱帖ニ乗子三四十人ツヽ乗組候へハ、人数
 も夥敷御座候故、広浦御水主米御定米弐百
 拾石ニ相成リ候而、毎年割符仕候所、壱人前小入用
 込銀七・八匁ツヽかゝり候得者、弐百拾石皆上納仕候、慶長
 より凡七八十年之間ハ、右之ふり合ニ而、皆上納仕候、

(内容)
慶長三年(1598)の初め頃は、広浦から西国・関東へ行っていた網の数は80帖もあった。
広浦の家数も昔は1300軒ほどもあったが、天正13年(1585)の大火事以後は段々と減り、
1000軒ほどとなった。80帖の網というと、1帖につき乗子30~40人ずつ船に乗り込んでいたので、
人数もとてもたくさんいたものである。そのため、広浦が負担する水主米も210石となり、
毎年人数で分担して、1人につき銀7~8匁ずつ掛かっていたが、すべて納めることができた。
慶長年間から70~80年の間は、このようにして水主米をすべて支払ってきた。
 
以上、「広浦往古ヨリ成行之覚」の本文(一部)と内容を紹介してみました(内容は意訳です)。
広浦の成り立ちと、漁師稼ぎの変遷が詳しく記されており、非常に興味深いものがあります。

なお、この記録は、広浦の窮乏を述べて、水主米の減免を訴える内容の古文書であるため、
窮状が強調され過ぎている可能性があります。
また、湯川氏の時代には広城が潰れていたということなど、いくつか事実と異なる部分もあり、
この記述内容をそそまま鵜呑みにすることはできません。
ただ広浦、ひいては紀伊国の海村(海に面した村)の変遷、
漁師稼ぎの動向をよく伺うことができます。
江戸時代の「紀州漁民」の活動の広がりを知っていただけたらと思います。

〈詳しく知りたい方ヘ〉
・笠原正夫「他国出漁の衰退と漁村の変質―広浦干鰯商人と波戸場修築―」(『近世漁村の史的研究』名著出版、1993年)
・『和歌山県史』近世(1990年) 第六章第3節
・『和歌山県史』近世史料五(1984年) p.683~689
                            (学芸員 坂本亮太)
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