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「災害の記憶」を伝える資料2

 和歌山県立博物館では、和歌山県教育庁文化遺産課、和歌山県立文書館、県内外の歴史研究者と共同で、「災害の記憶」の発掘と文化財の所在確認を行っています。ここでは、調査で確認した「災害の記憶」を伝える資料のうち、企画展「描かれた紀州」で出陳している資料を紹介します。

西清右衛門覚書 一冊 個人蔵 (展示番号26)

 西家当主である清右衛門が、三尾浦の名所の由来や歴史を過去の資料を基に書き写したものです。西家は江戸時代から明治時代にかけて網元として活躍した家でした。この覚書には46歳の清右衛門が安政3年(1856)正月に記した「嘉永七寅年津浪大変記」が収録されています。この「津浪大変記」では、まずロシアのプチャーチンがディアナ号で紀州沖を航行した様子が記されています。その後、11月4日の東海地震、5日の南海地震津波の様子(高波の襲来、続く余震、災害対応、三尾浦周辺の被害状況など)が記されています。わずかですが、宝永地震津波についても触れられています。


D3A_9873.jpg (冒頭の「目録」の部分)
D3A_9914.jpg (「嘉永七寅年津浪大変記」のが記された冒頭の部分)
D3A_9928.jpg (「嘉永七寅年津浪大変記」の最後の部分)



  嘉永七寅年津浪大変記
新春目出度万国茂寿キ祝ひ賀ふ年ノ始月の初日ノ始、今年嘉永七年甲寅ノ正月元日は黒白ニ当り不吉等申、其年ノ賀を正月過て祝ひ替たる家々も有、亦替ぬ家迚も別ニ替らぬ、迀り変るは世の習ひ、善キ事もあし事茂皆時節到来なり、禍福は人徳ニ備り老少者不定之世界なり、一寸先キは闇ミ、今年国々ニ古今の大変、即座ノ急難有之事を誰壱人しらぬ浅間士舗世界成が故に、我明暮レ家業ノ世話しき透間に心ニ懸ケ、以愚案筆紙ニ荒々有様ノ次第書尽し置事、後年ニ及我子孫万事心懸ケ之為略文ニ記ス、重言前後之分り難ク事、前段訳而断申置候、尚亦是より嘉永七年寅ノ年有様ノ治第、九月十八日異国ヲロシア大船大坂安治川口江滞舟ニ附、大坂近国所々火急ノ御堅メ、御国は加田瀬戸口江台場突ク、諸役人苫ケ嶋江出勤、泉刕谷川ノ湊口者土屋様陣を張る、下泉樽井迄者岸和田岡部様家中出張、大津崎者城州淀様、浜寺石津浜者伯太様、堺ノ津湊口陣取は和州高取様、大和川すじ狭山様、木津川口紀州様より御加勢三千人、幸イ橋御屋舗江相詰メ、安治川口天保山辺者大坂表諸国御蔵屋舗大名方出張御堅メ、野陣昼夜張詰、尼ヶ崎、津ノ国灘、兵庫ノ津、播州ノ奥すじ大名方出張、所々厳重之御備江虫之はいでる透間茂なし、厳舗御堅メ御苦労被成下、是程之御事ニ難有御蔭者、折節米直段を引下ケ、町人百姓ノ者共は面々ノ家業ニ精を入レ、何等少し茂驚事有間舗義度々之御触、国恩之難有御蔭土民悦べし、所々厳重之御備江御座候ニ附、異船何之趣意も無之大坂川口退散者、同十月七日之暮方退帆、其翌日御国加田沖合江塩懸り、八日暮方出帆、其夜中紀ノ路沖を順風ニ乗下り、暁方口熊野江住沖江相見江候而、熊野路を乗下ケ、伊豆ノ国下田之湊ニ着船仕、滞舟之内霜月四日四ツ時ノ大地震津波古今之大変ニ、ヲロシヤノ大舟も下田ノ湊ニ而破船仕候、亦是より津浪前変後変之有様書記ス、去ル嘉永五六年子丑弐ケ年ノ夏照続キ大不作、当村稲作種丈ケも取入レ難出来、籾米を拝借願程之皆無作ニ而、作方難渋ニ及御座候江共、当浦者両年共得漁事有之、近年ノ大漁ニ而御座候、同七年寅ノ春当浦日高戸ニ而目近鰹大釣得漁永ク続ク、亦夏より秋ノ頃迄続而小鰺沢山ニ得漁有之、寅ノ年内順気よろしく作方大豊年、稲毛秀而より無難ニ十分余ノ大豊年に取入レ、且亦当浦近年ノ得漁事ニ而、一昨弐年之照焼大不作も大底浦方之漁事ニ而入替等申、村内一同悦ひ安堵之人気ニ相成候折節、寅ノ三月都大門焼失、同六月十四日之夜大地震東海道すじ別段厳舗、所々家々潰れ候よし、其砌浪静ニ而海辺すじ別条無之候、夫より震動止ミ難ク折々驚ク事有、同霜月四日四ツ時大地震、同時東海道すじ、当国熊野浦々、汐ノ御﨑・串本前浜まで大変之津波高揚り、浦々民家大破損、居家潰れ流失諸品色々流失筆ニ尽し難ク、流死人数多ク有之、東海道すじ宿々居家潰れ焼失数しれず、人多ク死ス、同五日七ツ時大地鳴動キ、別段厳舗誠ニ恐ろしキ即座ノ急難ニ一同肝を潰し、驚キ騒キ、誰一人老若共居家ニ住居る事難出来逃出、驚入折柄未申ノ方空中鳴動く、其音山も崩るゝ地もさける如ク、天地浜海一度ニ鳴響ク、其恐ろしき有様生死ノ堺驚入る処、即座ニ沖合より津浪高山之如ク寄せ来ル、火急之折節家内子供老人親子ノ無差別も散々ニ高地江逃揚、一命を助り親は子を尋ね、子供は親の有所を尋合、誰レ壱人泣キ動かぬ者はなし、津波満たる汐水の引キ帰ス其音と、数万人数之泣声蚊之泣如ク一同ニ響ク時の声誠ニ恐ろしき事、三ツ子迄も真実より念仏申さぬ者はなし、津波高揚地方三丈余、浜端之居家納屋諸品々不残流失、引汐之底ニ而当浦中ニ汐水少しもなしニ干る折こへの島根本迄見える、其時亦肝を潰し、津波引勢に寄せ来たらバ高地ニ而茂助命不叶等、家財品々は一同捨置き高地ニ逃ケ揚り驚入候江共、段々浪静り村中一同其夜中より家内野住居山住居、一同ニ足こしは立ス、押合い重り合一々泣く計り、口に湯水も通らず誠ニ浅間舗有様也、亦其夜四ツ時大地震格別段厳敷鳴動き御座候江共、津波揚和らかく少し安堵仕候江共、何時ニ即死する事茂難計り、生死ノ堺驚案し、一同野ニ伏て泣キ暮す、其折節は神仏より外に便り者無之、真実より念願計り、其夜明ケ漸々親類家内面々無事災難之差別相分り候江共、村中大荒往来難出来御座候へ共、追々近村々の同難も相聞江、其当座は浦々一同野山ニ住み、村中往来留め、村堺にて村々昼夜張番、旅人入込事無用、当時差支たる品はろうそくに灯油、難事之節余慶に入用之品、火の元要心は毎夜六人ツヽ立番、其節村々十日程野小屋住イ、当浦ニ而津波流失之品、居家納屋棟数四十軒流失、漁舟魚船三十一艘流失、村中半分通り浜側家別大破損、浜方諸職品々半分通流失破損する、其後地震昼夜鳴動キ止み難く、三十日程ノ間家業難出来、明暮万事手ニ附ス、一同欲得を忘れ世の替りニ生キ替りたる皆意地ニ而、当時人気少し和らく、其節津波高揚り南国ニ而も入海川すじ別段厳しく、沖合和ら舗海上渡海之船無難に凌く、五日之津浪其日和田浜に魬大漁有、当浦魚船数船積入地震前ニ乗出し仕候舟、皆御﨑沖合江津波荒汐に引流され、地震津波大変を沖合ニ而凌キ夜を明す、無難ニ帰舟仕、地方ノ大変を見て大意ニ驚入、右魬積船乗組之水主壱人も上登る人気無之一両日荷物生魚乍積当浦沖合江懸置滞船、夫より無拠賃銀を極り壱人前上賃四拾匁、若山弐拾匁、舟賃も右ニ応じ、右折節ノ事故、積入魚数も不足ニ相なり、買人商内者皆損徳なし、網方よりノ舟賃積の応対ニ相成申候、右前日四日四ツ時之津波者、近浦々和ら舗浪揚り浜中程迄、奥熊野辺浦々串本浦前浜迄別段厳舗大変大破損、居家諸品々流失仕候事、近浦々夢ニも知らず、一同格別驚く事無之、何前変之記前日熊野辺之大変之様子聞江無之候ニ附、唯壱軒も津波之用意仕たる家々者無之候、翌五日朝日和能近浦々沖稼ニも出船仕候、折柄七ツ時頃大地震鳴動キ初り、驚キ恐れ帰舟之折柄、御﨑沖合之海中共しれず、未申ノ方空中鳴動キ厳舗事同刻御﨑山ニ居懸りたる村人有見請候処、空中鳴動キ其折柄御﨑沖合之海中より汐煙り雲路江立登り候、是等は陰陽之不和合ニ而地ノ水気強キ故ニ而、津波は平常野分ケの立浪より茂別段勢イ強キ故、臼迄も地面より浮揚り流失する古今之大変ニ、是前変て記シ何国ニ茂無之由、悪事者即座ノ眼前壱寸先キは難計不定之世界也、今に限らず当時津波大変より百五十年已前之事、宝永二年ニ如斯之津波大地震之大変有之候、事ノ治((次))第何れ茂聞伝江有之候江共、其時ニ井戸水ニ変有等聞伝へ有之候江共、即座ノ急難ニ合イ面々身壱ツ逃揚り、一急其期ニ及誰壱人も井戸ノ水を除キ見る間も無之候江共、折節少シ水色変じたる等申所も有之候、井戸水干たる所は無之候得共、津波後ニ村々井戸水其外、山々谷すじノ出水筋変り違イ有之候、亦浮世ハ大海ノ浮草同様之世界也、兎角平日神仏を尊敬し、四恩之御蔭を不忘、慈悲善根ニ志し、悪事災難を逃れ、家内睦しく明暮無油断家業に精を入レ、願者子孫繁栄長久相続者肝要也、右嘉永七年申ノ寅霜月大地震津波ノ大変荒増書尽し置事、我子孫迄為心得之書記ス、此集双紙かならず反古紙ニ尽し間舗、尚亦外方江紛れ行候共、此本主方江早々御帰し可被下候様、訳而断申置候、以上、集双紙主西清方
附而当浦津波古今之大変高揚場所有様際限左ニ記ス、寅ノ霜月五日七ツ時之津波高揚地面ニ而、三丈余ノ積り方当浦ノ宮ノ森木ノ枝ニ流失ノ品懸り、流失ノ船この崎ノ鼻流レ越ス、小三尾側厳舗浜出すじ残らず流失、宮ノ森近所津浪揚際限四郎兵衛居家舗ノ石垣迄、下すじ橋ノ川迄平一面ノ海ニ成、川すじは長太夫ノ突納屋を浪打越ス、大三尾側者少シ和ら舗浜端居家家別津波ノ汐ニ漬る、居家諸品大破損、向イすじ居家納屋不残流失、川すじ西者嘉吉、清右衛門之浜添田地迄汐揚り麦毛荒る、東川伝イ山野ノ井戸端迄汐揚る、家別小屋住居場所者、片山出宮ノ尾ノ畑地、小三尾小屋場所者法善寺近所松葉ノ畑地、光明寺近所者薬師ノ台、右所々ニ而暫ク野山小屋ニ住ム、其後亦暫ク光明寺本尊什物品と者片山与右衛門方ニ而守り奉る、寺内は汐ニ漬る、崩れ側津浪揚際限山艘根限り迄、家別汐ニ揚籾米漬り候家々も有之、其外近浦々日高川すじ別段厳舗、和田・吉原はますじ和ら舗御座候江共、近浦々之大変紙筆ニ者尽し難ク故、当浦丈ケ荒々如斯ニ御座候畢、嘉永七年寅ノ年津波東南すじ別段厳舗大変、已来年号安政ニ替る、安政弐年卯ノ年迄震動鳴響キ昼夜止ミ難ク、折々驚入事有、同弐年八月廿八日奥刕すじ大地震津波大変之噂御座候、同十月二日江戸表大地震津浪大荒無御座候由、地震者格別厳しく地面より弐三尺程ツヽ震上ケ動し、江戸町内土蔵数多震潰ス、焼失町家数しれず、変死人数江戸表ニ而数万人等申事之有様、遠路之事故噂ニ聞及ひ有之候事相違無之候、其節他国すじ九州路地震計り、津浪大荒者無之候、噂荒々如斯ニ御座候畢
安政三年辰ノ正月集之者也
  西清右衛門四十六再書記ス

*この資料は、『美浜町史』史料編にも収録されていますが、今回の調査で原本と照合し、一部修正しました。

(主任学芸員 前田正明)

→描かれた紀州
→和歌山県立博物館ウェブサイト

      
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