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コラム 紀州の画家紹介 9 桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)

企画展「江戸時代の紀州の画家たち」の関連コラム
「紀州の画家紹介」
9回目にご紹介するのは、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)です。


桑山玉洲(くわやま・ぎょくしゅう)

◆生 年:延享3年(1746)

◆没 年:寛政11年(1799)4月13日

◆享 年:54歳

◆家 系:和歌浦で廻船業(かいせんぎょう)・両替商(りょうがえしょう)を営む町人である桑山昌澄(くわやままさずみ、?~1752)の長男

◆出身地:紀伊

◆活躍地:紀伊・江戸・京都・大坂

◆師 匠:江戸の狩野派の画家を訪ねるが、納得できず、ほぼ独学で学ぶ。ただし、池大雅(いけのたいが、1723~76)からは強い影響を受ける。

◆門 人:桑山君婉(くわやまくんえん、?~1828)(妻)

◆流 派:文人画

◆画 題:山水・花鳥・走獣など

◆別 名:新太郎・茂平次・茂平治・左内・文爵・継昇・嗣幹・嗣杵・嗣粲・嗣燦・白楨・子琖・明夫・明光居士・珂雪漁人・白珠漁人・鶴鹿・珂雪堂・聴雨堂・幽興堂・鶴跡園・勧耕舎など

◆経 歴:町人、文人画家。宝暦2年(1751)、父の桑山昌澄が神奈川で亡くなる。明和元年(1764)、紀伊藩から「御勝手御用筋出精」として、名字帯刀を許される。明和2年(1765)、紀伊藩から「勘定奉行支配」の「地士」となる。明和5年(1768)、紀州安原郷4か村の荒蕪地を開墾して、新出島村を作る。同年、玉洲が所有していた神奈川の支店が火災に遭い、持船も難破ヵ。明和8年(1771)、再び江戸へ行く。安永9年(1780)、『桑氏扇譜考(そうしせんぷこう)』を執筆。寛政2年(1790)、岡本稚川(おかもとちせん、?~1792)撰『玉藻詩集(たまもししゅう)』に玉洲の描いた「和歌浦図」の挿絵が載る。同年、『玉洲画趣(ぎょくしゅうがしゅ)』・『画苑鄙言(がえんひげん)』(いずれも自筆草稿本)を執筆。寛政5年(1793)、紀伊藩医の今井元方(いまいげんぽう、1768~1819)、名草郡奉行の小田仲卿(おだちゅうきょう、1746~1814)、文人画家の野呂介石(のろかいせき、1747~1828)とともに熊野旅行へ行く。同年、紀伊藩から熨斗目(のしめ)の着用を許される。寛政6年(1794)、紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771~1852)から、硯・風鎮を拝領。同年、「熊野奇勝図巻(くまのきしょうずかん)」を描き、今井元方の序文を添えて、治宝へ献上。同年、和歌山を訪れた大坂の文人である木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736~1802)と交流。寛政9年(1797)、絵画制作の記録を『珂雪堂画記(かせつどうがき)』に記す。寛政10年(1798)、大坂の蒹葭堂を訪問。寛政11年(1799)、玉洲が亡くなった翌月に、蒹葭堂が玉洲の遺著『絵事鄙言(かいじひげん)』を刊行。初期は濃彩の花鳥画をよく描き、壮年期以降は、鮮やかな淡彩を用いた山水図や真景図を得意とした。池大雅の絵画理論を『絵事鄙言』などの画論によって世に示した点も重要。

◆代表作:「渡水羅漢図(とすいらかんず)」(和歌山県立博物館蔵)安永2年(1773)、「旭日群鶴図(きょくじつぐんかくず)」(個人蔵)安永4年(1775)、「梅花書屋図(ばいかしょおくず)」(個人蔵)安永4年(1775)、「和歌浦図巻(わかのうらずかん)」(個人蔵)天明2年(1782)、「雪竹図屛風(せっちくずびょうぶ)」(個人蔵)寛政元年(1789)、「鉛山勝概図巻(かなやましょうがいずかん)」(個人蔵)寛政5年(1793)、「熊野奇勝図巻」(個人蔵)寛政6年(1794)、「富岳図襖(ふがくずふすま)」(念誓寺蔵)寛政7年(1795)、「那智山・熊野橋柱巌図屛風(なちさん・くまのはしぐいいわずびょうぶ)」(念誓寺蔵)寛政9年(1797)、「雪館集飲図(せっかんしゅういんず)」(和歌山県立博物館蔵)など


以下、今回展示している作品をご紹介しましょう。
まずは、玉洲30歳のときに描かれた初期の代表作である「旭日群鶴図」(個人蔵)。
桑山玉洲筆 「旭日群鶴図」 (個人蔵) 軽
(以下、いずれも画像をクリックすると拡大します)
桑山玉洲筆 「旭日群鶴図」 款記 (個人蔵) 軽 桑山玉洲筆 「旭日群鶴図」 印章 (個人蔵) 軽
款記は「乙未春/玉洲桒文爵写」、印章は「玉洲」(朱文方印)、「文爵印」(白文回文方印)です。

飛び回るたくさんの鶴のかわいらしい描写と、おめでたい雲である瑞雲(ずいうん)の形、朝日で染まる空の繊細な色遣いなどが印象的な作品で、初期の玉洲の絵の特徴をよく示しています。京都や大坂で活躍し、玉洲とも交流があったことが確認される鶴亭(かくてい、1722~85)という黄檗宗の僧侶が、よく似た構図の鶴の絵を描いており、何らかの関連性も想定される貴重な作例です。
なお、絵の外周の表装の部分には、同じく紀州ゆかりの画家で、江戸時代の後期に活躍した岩瀬広隆(いわせひろたか、1808~77)の補筆と、款記があるのも、紀州の画壇にとっては興味深い点といえるでしょう。
桑山玉洲筆 「旭日群鶴図」 岩瀬広隆款記 (個人蔵) 軽 桑山玉洲筆 「旭日群鶴図」 岩瀬広隆印章1 (個人蔵) 軽 桑山玉洲筆 「旭日群鶴図」 岩瀬広隆印章2 (個人蔵) 軽
広隆の款記は金泥で「嘉永己酉冬/廣隆補隺」とあり、印章は「廣隆之印」(白文方印)、「昭年氏」(朱文方印)です。


続いては、近年発見された「墨竹葡萄図」(和歌山県立博物館蔵)を見てみましょう。
桑山玉洲筆 「墨竹葡萄図」 (和歌山県立博物館蔵) 軽

桑山玉洲筆 「墨竹葡萄図」 款記 (和歌山県立博物館蔵) 軽
款記は「仙種来蒬國霊根/托洋宮三秋風露裏/不改舊芳叢/明人詩 桒嗣燦冩」、

桑山玉洲筆 「墨竹葡萄図」 印章1 (和歌山県立博物館蔵) 軽 桑山玉洲筆 「墨竹葡萄図」 印章2 (和歌山県立博物館蔵) 軽
印章は「桑粲」「明夫」(白文連印)、「體質處文」(白文長方印)です。

葡萄の葉や葡萄の実などを描き出す墨の濃淡の階調が美しく、また、対角線を意識した竹の配置や構図なども、竹や葡萄の豊かな生命力や力強さを効果的に感じさせています。ただ、こうした葡萄の表現は、中国の明時代の絵や、朝鮮の絵などでしばしば描かれました。その意味で、この絵は、玉洲が中国や朝鮮の絵を学び、それらの表現を充分に咀嚼していることを、よく示す作例ともいえるでしょう。


さて、最後にご紹介するのも、近年発見され、今回の展示が初公開となる「雪館集飲図」(和歌山県立博物館蔵)です。
桑山玉洲筆 「雪館集飲図」 (和歌山県立博物館蔵) 軽

桑山玉洲筆 「雪館集飲図」 款記 (和歌山県立博物館蔵) 軽
款記は「雪館集飲圖/奉呈/知足上人咲正/桒嗣燦」、

桑山玉洲筆 「雪館集飲図」 印章 (和歌山県立博物館蔵) 軽
印章は「桑粲」「明夫」(白文連印)です。

画面には、なだらかな山水の景が広がり、一面、雪に覆われています。中央の家屋では、人物たちが赤い机を囲み、何やら談笑しているようです。左下の題にある「雪館集飲」とは、まさにそのことで、雪の中で館に集まり、宴会を開いて酒を飲んでいるのでしょう。人物の衣には、黄や茶・群青などの色を鮮やかに施し、画面全体には白い絵の具を飛び散らせて、降りしきる雪をダイナミックに演出しています。
この絵は、玉洲が師事した池大雅からの影響がうかがえる作例で、大雅の「四季山水図(しきさんすいず)」(京都国立博物館蔵)の「冬景」は、この絵と類似した構図です。ただ、白い絵の具を画面全体に大胆に飛び散らせた点が、玉洲らしい表現といえるでしょう。こうした雪の表現は、当時流行していた沈南蘋(しんなんぴん、1682~?)という来日した中国人画家や、その画風を継承した画家たちからの影響と想像されます。
なお、同様の雪の表現を施した玉洲の雪景山水としては、「雪山唫客図(せつざんきんきゃくず)」(個人蔵)と「雪景訪隠図(せっけいほういんず)」(個人蔵)の2点が知られ、いずれも寛政10年(1798)玉洲53歳の作です。また、この絵は左下の款記から「知足上人(ちそくしょうにん)」のために描かれたことがわかりますが、玉洲は同じ寛政10年(1798)に「花陽山人居宅図(かようさんじんきょたくず)」(個人蔵)を2点残しており、その絵を贈られた「花陽山人」なる人物は「知足軒(ちそくけん)」という印章を用いていることから、「知足上人」と同一人物とみられます。「知足上人」が誰なのか、今のところ詳しくはわかっていませんが、この絵が寛政10年(1798)に描かれたのは、ほぼ間違いないでしょう。あるいは、絵の中で酒を飲んでいる人物の一人が知足上人で、そうした集まりの記念として、この絵が描かれたのかもしれません。

このように、玉洲の絵についても、近年発見された初公開の絵をはじめ、玉洲の画業を代表するような作例を取り上げて紹介しています。主題や時期の違いによる玉洲の絵の魅力や特徴を、ぜひ、博物館の会場で実感してみてください。(学芸員 安永拓世)

江戸時代の紀州の画家たち
和歌山県立博物館ウェブサイト
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