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神仏分離と南竜神社の創建

 神社から仏教的要素を排除するという明治政府の神仏分離令によって、明治5年(1872)東照宮境内にあった本地堂、三重塔、鐘楼などは取り壊され、別当寺である天曜寺(雲蓋院)をはじめ子院六坊も、大相院を残して廃寺となりました。
 明治7年10月、三浦権五郎ら旧藩士族たちは、藩祖である徳川頼宣(南竜院)を祭る南竜神社を設立するための運動を始め、11月創建が許可されます。かつて南竜院の御霊屋があった場所の近くに南竜神社が建てられました。明治8年、南竜神社は県社に列せられ、天皇-紀伊徳川家-旧家臣という精神的なつながりが、明治政府からも公認されることになりました。

拓本「建南竜神社記」D3A_6759

 拓本「建南竜神社記」(なんりゅうじんじゃをたつるき、35)は、和歌山市の和歌浦にある紀州東照宮境内に残る石碑の拓本です。この石碑は南竜神社が創建されたときに製作されたようで、その製作には、太政大臣の三条実美(さんじょうさねとみ)、旧藩主の徳川茂承、書家の長三洲(ちょうさんしゅう)、彫刻師の広瀬群鶴(ひろせぐんかく)が関わっていました。内容は、徳川頼宣が紀伊国に移ってからの紀伊徳川家の事績、南竜神社の創建に至る経緯や尽力した旧家臣の名前などが記されています。

東照宮境内にある石碑「建南竜神社記」 東照宮境内にある石碑「建南竜神社記」

 旧藩主徳川茂承(とくがわもちつぐ、1844~1906)や重臣たちは、祭神である頼宣ゆかりの品を、創建された南竜神社に寄付し、三浦権五郎が社司を勤めています。

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 浅葱平絹頭巾(あさぎへいけんずきん、37)は、兜の下に着用したと思われる南蛮風の頭巾で、顔を覆うようになっており、和歌山県指定文化財に指定されています。頭巾に付けられている紙には、正保3年(1646)に初代藩主徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が、幼少時に自ら着用したものである頭巾であること確認したと記されています。頭の部分は弧を描いた三角形の裂(きれ)を四枚継ぎにした帽子になっており、額(ひたい)にはつばがついています。頭のてっぺんには同じ裂を用いたくるみ釦(ぼたん)が付けらています。ボタンを付けたり、曲線で裁断したりする方法は、当時のヨーロッパの作り方をまねたものだとされています。曲線で裁断する方法は、従来用いられていた直線で裁断する方法に比べて動きやすいという利点があり、戦いに使用する具足の下着などに、適した裁断方法ともいわれています。明治9年(1876)3月、紀伊藩の最後の藩主であった徳川茂承から、この浅葱平絹頭巾をはじめ、徳川頼宣所用品が一括で、南竜神社に寄付されました。その後、南竜神社が東照宮に合祀された大正9年(1920)に東照宮に移されました。

創建当初の南竜神社(左)と移築後の南竜神社(右) 創建当初の南竜神社(左)と合祀後の南竜神社(右)

 藩祖入国三百年祭が間近に迫る大正6年(1917)、南竜神社は東照宮に合祀され、翌年社殿は東照宮社殿の脇に移築されています。南竜神社の跡地には、紀伊徳川家の別荘双青寮が建てられましたが、戦後、徳川家の所有を離れ、双青寮内に作られた木造2階建ての双青閣は、昭和41年(1966)に解体され、海南市の亀池公園に移築されました。

 7月12日(土)13時30分から、最後のミュージアムトーク(展示解説)を行います。

(主任学芸員 前田正明)

→企画展「紀伊徳川家の家臣たち」
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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