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コラム7「比べてみよう羅漢さん」

「桑山玉洲のアトリエ」展のコラム7回目です。

今回のコラムでは、近年発見されて、和歌山県立博物館の所蔵となった桑山玉洲筆「渡水羅漢図」についてご紹介しましょう。
渡水羅漢図 桑山玉洲筆 和歌山県立博物館蔵(軽)
(画像をクリックすると拡大します)
渡水羅漢図 桑山玉洲筆
(とすいらかんず くわやまぎょくしゅうひつ)
絹本著色 1幅 縦105.4㎝ 横51.7㎝
安永2年(1773) 玉洲28歳 和歌山県立博物館蔵

この絵は、岸辺から水に入って川を渡る総勢32名の羅漢(らかん)たちを描いています。ある羅漢は若い者に背負われ、ある羅漢は肩や腕を支えられ、また、ある羅漢は荷物をまとめて頭の上に抱えながら、今まさに川を渡っているところです。羅漢の衣服や荷物はきわめて緻密(ちみつ)に描かれ、また、そこに施された着色も濃く華麗で、玉洲の初期作の特徴を、よく示しています。

また、この絵は、右下に書かれた「安永癸巳春/於東武驛楼/臨李思訓法/玉洲桑嗣幹」という款記(かんき)から、①安永2年(1773)の春、玉洲28歳のときに、②江戸の宿場のような場所で、③中国の唐時代の画家である李思訓(りしくん、651~718)の画法にならって描いた、という三つのことがわかる点で、とても貴重な作例ともいえるでしょう。

なぜなら、玉洲の初期作のうち、描かれた年代がわかるものはごくわずかで、この絵より前の年紀がある作例は、現状で4点しか知られていないからです。

また、中国の絵にならったことを示す玉洲の初期作は、「甲子秋日用/太痴道人法/玉洲桒文爵」という款記のある安永3年(1774)秋制作の「浅絳山水図(せんこうさんすいず)」(個人蔵)が知られていますが、江戸で描いたと記したものは、現状では、この絵しか知られていません。

玉洲が江戸で絵を学び、いくつかの作例を描いたことは、玉洲自身が『玉洲画趣(ぎょくしゅうがしゅ)』という著作に記していますが、この絵は、それを証明する、きわめて重要な作例といえるのです。

ところで、本図に類似した「渡水羅漢図」としては、逸然性融(いつねんしょうゆう、1601~68)筆「羅漢渡水図巻(らかんとすいずかん)」(神戸市立博物館蔵)や、河村若芝(かわむらじゃくし、1636~1707)筆「羅漢渡水図巻」(明楽寺蔵)など黄檗宗(おうばくしゅう)の僧侶(そうりょ)が描いた作例が知られています。

ここでは、逸然性融筆「羅漢渡水図巻」(神戸市立博物館蔵)と玉洲の「渡水羅漢図」とを比較することで、玉洲の絵画学習のあり方を探ってみましょう。

まずは、逸然筆「羅漢渡水図巻」の図様を見てみてください。(直リンクについては、神戸市立博物館さまの許可を得て掲載しています)
→羅漢渡水図巻 逸然性融筆 (神戸市立博物館蔵)

逸然とは、長崎で活躍した黄檗宗の僧侶であり画家であった人物ですが、まず、一見すると、逸然画は横長の画巻形式、一方の玉洲画は縦長の掛軸形式で、画面構成もやや異なることから、両者が類似しているようには見えません。

しかし、玉洲画に描かれている羅漢たちを、それぞれ関連性の強い数人ごとに分け、並べ替えてみると、何と、逸然画とほぼ同じ図様であることがわかるのです。

下の写真は、そうして玉洲画から切り取った羅漢たちを、逸然画と同じ順序に並び替えたものです。右上から順に左へ、さらに下段へと、逸然画と比較しながら見てみてください。羅漢たちが同じ格好をしていることがわかると思います。

渡水羅漢図 桑山玉洲筆 4(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 3(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 2(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 1(軽)

渡水羅漢図 桑山玉洲筆 10(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 9(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 8(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 7(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 6(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 5(軽)

渡水羅漢図 桑山玉洲筆 15(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 14(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 13(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 12(軽) 渡水羅漢図 桑山玉洲筆 11(軽)
(いずれも画像をクリックすると拡大します)

逸然画に描かれている羅漢たちは総勢34名で、このうち31名が、玉洲画の中にそっくりの姿で描かれています。一致しない3名は、右端で膝(ひざ)を抱える羅漢1名と、左端の岸に立つ赤い衣と白い衣の羅漢2名のみです。一方の玉洲画にも、左端の木陰に隠れる桃色の衣の1名のみは逸然画に登場しませんが、いずれにせよ、両者の羅漢の姿の差はきわめて少ないのです。

ただ、玉洲自身は、「渡水羅漢図」の款記で李思訓の画法にならって模写したと述べているため、原本となる別の中国の絵があったとも考えられます。たしかに、玉洲画の濃密で構築的な岩や松の表現は、淡泊な逸然画とは類似せず、中国絵画的な要素を感じさせるでしょう。たとえば、玉洲がみずから収集した扇面書画とその筆者について、安永9年(1780)に記した『桑氏扇譜考(そうしせんぷこう)』(個人蔵)という著作には、中国の清(しん)時代の画家である「張適(ちょうてき)」の「白描過海羅漢図(はくびょうかかいらかんず)」という作例がリストアップされており、玉洲自身も同主題の扇面画を所蔵していたようです。

とはいえ、逸然画には、逸然の弟子にあたる河村若芝という黄檗宗の画僧が描いた同図様の画巻も知られており、ある程度、定型化した図様だったと考えられます。玉洲にとっては、より身近な作例として、こうした黄檗画僧が描いたものを見ていた可能性は高いでしょう。であるならば、元々は逸然画のような画巻形式の図様を、玉洲が切り貼りをして再編成し、掛軸形式の画面構成に仕立て上げたとも考えられることとなります。

玉洲画と同図様の掛軸形式の中国絵画の原本があったのか、あるいは、逸然画のような黄檗宗の僧侶の作例を参考に、画面構成は玉洲が再編成したものなのか。

どちらにしても、玉洲の初期の画業を考えるうえで、興味深い問題なのですが、その答えを知る羅漢たちは、ただただ、絵の中で水を渡るばかりなのです。(学芸員 安永拓世)

特別展 桑山玉洲のアトリエ―紀州三大文人画家の一人、その制作現場に迫る―
和歌山県立博物館ウェブサイト
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