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スポット展示「紀伊徳川家と熊野本宮大社」

 県立博物館では、博物館の所蔵品を、より多くのみなさまに、広く知っていただきたいという目的から、
2階に「スポット展示」というコーナーを設け、館蔵品を数点取り上げた展示を行っています。このスポット展示は、無料でご覧いただけます。
 今年度は「ちょっとだけ《江戸時代》を知ろう」と題して、城下町和歌山の様子がわかる資料、藩主であった紀伊徳川家やその家臣たちにかかわる資料などから、270年ほど続いた「江戸時代」、江戸(東京)に政治の中心となる幕府が置かれた時代を紹介します。
 スポット展示は、約1か月から2か月ごとに、展示替えをおこないます。

 昨年(2010年)の5月からスタートした「スポット展示」については→こちらをご参照ください。


18回目を迎えた今回のテーマは
紀伊徳川家と熊野本宮大社
【会期:12月10日(土)~2012年1月20日(金)】


今回は、紀伊徳川家と熊野三山、とくに熊野本宮大社とのかかわりを示す資料を中心に展示しました。

005展示の様子(画像をクリックすると拡大します)

 近世の熊野三山は、豊臣家、そして紀伊徳川家による保護を受けました。
ここでは、紀伊徳川家と熊野本宮大社との関わりをみてみたいと思います。
 元和5年(1619)、紀伊藩初代藩主となった徳川頼宣(よりのぶ)は、
翌年重臣で新宮城主となった水野重央(しげなか)に、本宮の礼殿(らいでん)の再興を命じました。
さらに、寛永12年(1635)ごろにも社殿の修復が行われたようです。
 その後、紀伊藩主から江戸幕府8代将軍となった徳川吉宗が、本格的な復興を行っています。
さらに、残されている棟札(むなふだ)から、
紀伊藩10代藩主の徳川治宝(はるとみ)も修復を行ったことがわかります。
 明治22年(1889)の大洪水によって、熊野本宮大社の社地は現社地に移ります。
幾度もの火災や洪水などに遭遇しながらも、その都度復興を成し遂げています。

  以下は、展示資料の解説です。

熊野本宮社頭図 岩瀬広隆原図
 (くまのほんぐうしゃとうず いわせひろたかげんず)

熊野本宮社頭図(画像をクリックすると拡大します)
   1面
   版本淡彩
   19世紀
   縦45.3㎝ 横62.5㎝

 この図は、紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)の挿し絵(さしえ)を担当した、
大和絵師である岩瀬広隆原画の版本に、
鈴木雲渓(すずきうんけい)がのちに彩色を加えたものです。
明治22年(1889)以前の熊野川中州の大斎原(おおゆのはら)に鎮座した、
熊野本宮大社の社殿とその周辺の景観を、
鳥瞰図(ちょうかんず)的な構図で克明に描写しています。
 弘化4年(1847)、10代藩主徳川治宝(とくがわはるとみ)から命じられた
紀伊国名所図会後編の編纂(へんさん)資料を収集するため、
広隆は熊代繁里(くましろしげさと)らと紀南地方を歴遊しました。
 本図は、このとき見た実景をもとに描かれたものではないかと考えられます。
社殿周辺の川原開発の様子も詳細に描かれていますが、
社殿を守るために作られていたはずの堤防産田堤(うぶたつつみ)は描かれていません。


金剛盤 徳川頼宣奉納
 (こんごうばん とくがわよりのぶほうのう)

金剛盤 金剛盤 銘文(画像をクリックすると拡大します)
   1基
   銅製
   寛永12年(1635)
   縦20.6㎝ 横28.26㎝ 高さ7.0㎝

 金剛盤は金剛鈴(れい))金剛杵(しょ)をのせる三足付きの平台で、
密教儀礼で用いられる法具です。
上面にある陰刻銘から、
寛永12年に紀伊藩初代藩主である徳川頼宣(よりのぶ)が、
熊野本宮大社の護摩堂に寄進したものとわかります。
同じ年、熊野速玉大社や熊野那智大社にも金剛盤が寄進されたようで、
頼宣と熊野三山とのかかわりを具体的に示すものといえます。
 前年10月、本宮では江戸幕府に対して、社殿の修復願いを出しており、
社殿の修復にかかわって寄進された可能性も考えられます。
 銘文は、「熊野本宮/神前護摩堂/四面器幷護摩器/
紀伊大納言頼宣公御寄進/寛永十二乙亥年九月吉日」となっています。


熊野百景写真帖 久保昌雄撮影
 (くまのひゃっけいしゃしんちょう くぼまさおさつえい)

熊野坐神社(画像をクリックすると拡大します)
   2帖
   写真
   明治33年(1900)
   各縦13.0㎝ 横18.8㎝ 

 明治33年5月に新宮の写真家久保昌雄(1864~1938)が、
皇太子(後の大正天皇)の成婚を祝して、
熊野の景観から百景を選んで献上しました。
これが好評であったため、焼き増しされたのがこの写真帖です。
 新宮から本宮・湯峯(ゆのみね)・瀞峡(どろきょう)までと
三輪崎から那智山までを1帖に、
那智から太地、古座、串本までと鵜殿(うどの)から七里御浜(しちりみはま)、
有馬、尾鷲(おわせ)までを1帖に収めています。
 ここで紹介する写真は、
「国幣中社(こくへいちゅうしゃ) 熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)」と題されたものです。
熊野坐神社は、昭和26年(1951)「熊野本宮大社」に改称されました。
これらの写真は、100年余り前の景観を知ることができます。 

 このような解説とともに、資料が展示されています。
 博物館の2階は、どなたでも無料でご覧いただけます。
折々、博物館の2階を訪れて、ひと昔前の〝江戸時代〟を感じてみてはいかがでしょうか。

 熊野地域は9月初旬の台風12号によって、たくさんの方々の尊い命が奪われました。
熊野三山を始めとする文化財も被害を受けています。
一日も早い復興をお祈りいたします。

  今回のスポット展示は、1月20日(金)までです。

  次回のテーマは、「江戸に住む紀伊藩の女性たち」を予定しています。
  (主任学芸員 前田正明)

→和歌山県立博物館ウェブサイト
→これまでのスポット展示
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