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スポット展示「大坂の陣後に召し抱えられた家臣 ―岡見氏―」

 県立博物館では、博物館の所蔵品を、より多くのみなさまに、広く知っていただきたいという目的から、
2階に「スポット展示」というコーナーを設け、館蔵品を数点取り上げた展示を行っています。このスポット展示は、無料でご覧いただけます。
 今年度は「ちょっとだけ《江戸時代》を知ろう」と題して、城下町和歌山の様子がわかる資料、藩主であった紀伊徳川家やその家臣たちにかかわる資料などから、270年ほど続いた「江戸時代」、江戸(東京)に政治の中心となる幕府が置かれた時代を紹介します。
 スポット展示は、約1か月から2か月ごとに、展示替えをおこないます。

 昨年(2010年)の5月からスタートした「スポット展示」については→こちらをご参照ください。


16回目を迎えた今回のテーマは
大坂の陣後に召し抱えられた家臣 ―岡見氏―
【会期:2011年9月17日(土)~11月4日(金)】


004_20110916233815.jpg(画像をクリックすると拡大します)

 慶長14年(1609)、徳川頼宣(よりのぶ)は駿河(するが)・遠江(とおとおみ)・東三河(ひがしみかわ)
50万石の領主となり、父・家康から多くの家臣(御付人、おつけにん)が分与されました。
 また、慶長19年・同20年の大坂の陣の後にも家臣団が強化されています。
 さらに、頼宣が紀伊に入国する元和5年(1619)の前後にも、
戦国大名の浪人などを新規に召し抱えたり、紀伊国内の土豪を召し抱えたりもしています。
 岡見家家譜(県立文書館蔵)によれば、岡見家はもと常陸国(ひたちのくに)牛久(うしく)城主で、
治広は北条家に仕え、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めの後、浪人となりました。
 冨重(治広2男)は、越前の松平忠直(ただなお)に仕え、
大坂の陣に出陣し、その後頼宣に召し抱えられました。
 紀伊入国後は300石の知行が与えられ、馬廻(うままわ)り役を勤めています。

  以下は、展示資料の解説です。

知行目録
 (ちぎょうもくろく)

DSC_1483.jpg(画像をクリックすると拡大します)
   1通
   紙本墨書
   元和6年(1620)
   縦32.8㎝ 横51.9㎝

知行加増目録
 (ちぎょうかぞうもくろく)

DSC_1485.jpg(画像をクリックすると拡大します)
   1通
   紙本墨書
   元禄12年(1699)
   縦43.2㎝ 横56.7㎝

知行割替目録
 (ちぎょうわりかえもくろく)

DSC_1492.jpg(画像をクリックすると拡大します)
   1通
   紙本墨書
   元禄13年(1700)
   縦34.8㎝ 横56.5㎝

 元和5年7月、紀伊に入国した頼宣(よりのぶ)は、翌年8月家臣に対し、一斉に知行目録を出しました。
 ①は、藩の年寄が連署で岡見庄兵衛冨重(初代)に出したものです。
知行地は相給(あいきゅう、1村が複数の家臣の知行地になる)支配が原則で、
知行地の村も紀伊国と伊勢国に分散することもありました(岡見家の場合は、知行地は紀伊国のみ)。
 元禄11年、時治(2代)が隠居し、道治(3代)に家督相続(150石)が認められました。
 ②は、翌年新たに50石が加増された際に出されたもので、知行は合わせて200石となりました。
さらに、同13年には知行割替(知行地の配置替え)が行われました。
 ③は、勘定奉行(かんじょうぶぎょう)が連署で出したものです。
この割替で、岡見家の知行地(150石分)は、
那賀郡島村(現、紀の川市)と名草郡和田村(現、和歌山市)に変更されています。
 近世において知行地は父子相伝の家産ではなく、
一代ごとに藩主から与えられる恩給的な意味合いが強く、
家督相続では家禄が減少する世減制(せげんせい)がとられました。


往来之節道具扣
 (おうらいのせつどうぐひかえ)

005_20110916235935.jpg(画像をクリックすると拡大します)
   1冊
   紙本墨書
   嘉永3年(1850)
   縦24.4㎝ 横16.3㎝

 参勤交代に同行する御手弓(おてゆみ)組が使用する道具を記したものです。
本隊とともに、先廻り隊の道具も記されています。
岡見要人友久(8代)は、天保9年(1838)に家督を相続し、
その後弘化4年小十人頭(こじゅうにんがしら)に、
嘉永4年(1847)御手弓頭に命じられています。
本書は、友久が御手弓頭を命じられる前年に作成されたもので、
前任者から引き継がれた書類と考えられます。
 嘉永2年春、紀伊藩では江戸参府が予定されていましたが、
12代藩主斉彊(なりかつ1820~1849)が3月27日に亡くなったため、中止となりました。
江戸にいた4歳の慶福(よしとみ1846~1866)が13代藩主となりましたが、
在任中(9年余)和歌山に帰国することなく、
14代将軍(家茂<いえもち>と改名)となりました。

 このような解説とともに、資料が展示されています。
 博物館の2階は、どなたでも無料でご覧いただけます。
折々、博物館の2階を訪れて、ひと昔前の〝江戸時代〟を感じてみてはいかがでしょうか。

 岡見家文書は古書店を通じて購入したもので、
和歌山大学にも分蔵されていることがわかりました。

  今回のスポット展示は、11月4日(金)までです。

  次回のテーマは、「紀伊藩主の別邸 ―西浜御殿と湊御殿―」を予定しています。
  (主任学芸員 前田正明)

→和歌山県立博物館ウェブサイト
→これまでのスポット展示
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