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スポット展示「江戸時代の地震と和歌山」

 県立博物館では、博物館の所蔵品を、より多くのみなさまに、広く知っていただきたいという目的から、
2階に「スポット展示」というコーナーを設け、館蔵品を数点取り上げた展示を行っています。このスポット展示は、無料でご覧いただけます。
 今年度は「ちょっとだけ《江戸時代》を知ろう」と題して、城下町和歌山の様子がわかる資料、藩主であった紀伊徳川家やその家臣たちにかかわる資料などから、270年ほど続いた「江戸時代」、江戸(東京)に政治の中心となる幕府が置かれた時代を紹介します。
 スポット展示は、約1か月から2か月ごとに、展示替えをおこないます。

 昨年(2010年)の5月からスタートした「スポット展示」については→こちらをご参照ください。


14回目を迎えた今回のテーマは
江戸時代の地震と和歌山
【会期:2011年7月2日(土)~8月12日(金)】


005_20110701195659.jpg(画像をクリックすると拡大します)

 「備えあれば憂いなし」という、ことわざがあります。
1995年1月17日の阪神・淡路大震災、今年3月11日の東北地方太平洋沖地震を経験した私たちは、
近い将来起こるであろう東南海・南海地震に対する備えを、日ごろから心がけておかなくてはなりません。
 そこで、まずは「歴史に学ぶ」ということで、
江戸時代に起こった日本最大級の地震といわれる「宝永大地震」にかかわる資料を紹介します。
この地震は、宝永4年(1707)10月4日の未刻(みのこく、午後2時ごろ)に発生し、
地震の規模はマグニチュード8.4と推定されています。
家屋の倒壊は関東~九州に及び、伊豆半島~九州の太平洋沿岸では津波に襲われ、
和歌山でも被害は大きかったようです。
また、地震から49日後には富士山の噴火も起こっています。

  以下は、展示資料の解説です。

紀州新宮城絵図
 (きしゅうしんぐうじょうえず)

紀州新宮城絵図(画像をクリックすると拡大します)
紀州新宮城絵図(袋書)(袋書、画像をクリックすると拡大します)
   1舗
   紙本著色
   宝永5年(1708)
   縦98.5㎝ 横158.6㎝

  宝永4年10月4日の大地震によって大破した新宮城の修復願を幕府に出すため作成した図面です。
翌年7月和歌山で清絵図(せいえず)を作り、幕府に提出しています。
有増(あらまし、概略)を書いた図面と、委細(詳細)な図面の2枚があり、本図は前者のようです。
それぞれの郭(くるわ)の石垣が正確に描かれ、
大手門から大手道を通って本丸・天守閣に至るルートが朱線で記されています。
被害を受けた大手道の登り、水ノ手(みずのて)から松ノ丸への道、登坂越(とさかごえ)の道が赤く彩られています。
 幕府は願いを受けて、9月に修理の許可を出し、翌年に修理が行われました。
建物などの記載はありませんが、作成年代が特定でき、新宮城の構造を知るうえでも貴重な絵図といえます。


熊野川図
 (くまのがわず)

熊野川図167②-19(部分、画像をクリックすると拡大します)
   1帖
   紙本著色
   江戸時代後期(18~19世紀)
   縦28.1㎝ 横850.0㎝

 九里八丁(くりはっちょう)といわれた、本宮から新宮までの熊野川沿いの景観を描いています。
俯瞰(ふかん)的な構図で、川沿いの村名、名所・旧跡、距離などが付箋で記されています。
南葵(なんき)文庫の朱印があり、紀伊徳川家旧蔵品とわかります。
 上の画像は、新宮城付近を描いたところです。
熊野川沿いにあった新宮城には「水野飛騨守(ひだのかみ)」と記された付箋があります。
水野家では7代忠奇(ただより、1749~1822)が、寛政5年(1793)から文政5年(1822)まで、「飛騨守」を名乗ります。
本図の作成時期もこのころと考えられます。
 『熊野年代記』によれば、宝永4年の大地震の際、新宮では城下町の町屋が壊れ、多くの死者が出たようです。
海沿いでは津波が押し寄せ、浦々の家が流されました。
余震も7日間続いたようです。

 このような解説とともに、資料が展示されています。
 博物館の2階は、どなたでも無料でご覧いただけます。
折々、博物館の2階を訪れて、ひと昔前の〝江戸時代〟を感じてみてはいかがでしょうか。

 今回はスペースの関係で展示できませんでしたが、『紀伊国名所図会』にも興味深い内容が記されています。

(参考)紀伊国名所図会 後編巻之六
 (きいのくにめいしょずえ こうへんまきのろく)

紀伊国名所図会2 紀伊国名所図会1(画像をクリックすると拡大します)
   1冊
   版本墨刷
   嘉永4年(1851)
   縦26.2㎝ 横18.5㎝

  紀伊国の寺社・旧跡・景勝地などの由来や来歴などを記した地誌です。
後編の編者は加納諸平と神野易興、挿絵は岩瀬広隆です。
 日高郡にある鹿島明神社の条には、重賢なる人物が記した「重賢記」が載せられています。
 この冒頭には、「午の時さがり(午後1時ごろ)、大波が凄まじく、山が崩れ、地面も裂け、
家もひっくり返るほどの揺れを感じ、人々は皆、気が動転した」と規模の大きさが記されています。
 さらに、山の上から津波が押し寄せる状況をみていると、
沖にあった鹿島に津波が押し寄せたため、津波が及ばなかった村もあったようです。
 後世の教訓として伝えるため、「重賢記」は鹿島にある鹿島神社に納められたと記されています。

 このほか、宝永の地震については、地方巧者といわれた大畑才蔵も、
「十月四日未上刻道七八町あゆみ候ほとの内老人も覚無之と申ほとの大地しん 
地一二寸ツヽわれひゞき地方にてハ床よりとろ水砂土なと吹出ス 家々ゆかみ潰申も有之」
(「才蔵日記」『大畑才蔵』に収録)と記しています。
 また、昨年に開催した特別展「京都・安楽寿院と紀州・〝あらかわ〟」で出陳した、
安楽寿院新御塔棟札には、慶長大地震の記述があります。
 詳しくは図録をご覧ください。

  今回のスポット展示は、8月12日(金)までです。

  次回のテーマは、「『御付衆』と呼ばれた家臣 ―芦川氏―」を予定しています。
  (主任学芸員 前田正明)

→和歌山県立博物館ウェブサイト
→これまでのスポット展示

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