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和歌祭って、どんなおまつり?

和歌祭って、どんなおまつり?

 万葉集にも詠まれた和歌浦は、風光明媚な景勝地であり、和歌の神をまつる玉津島神社や天満宮が立地する、宗教的な聖地でもありました。
 元和5年(1619)、紀伊国に徳川家康の子頼宣が入国すると、領国支配の精神的なシンボルとして、この和歌浦に家康を祭神としてまつる東照宮(当初は東照社)を建立しました。社殿は元和7年(1621)11月に完成、その月のうちに遷宮が行われ、明くる年、家康忌日の4月17日に、東照宮としての初めての例大祭が行われました。現在の和歌祭です。
東照宮社殿20110302 紀州東照宮社殿(重要文化財)

 和歌祭では、社殿での神事ののち、神輿が御旅所まで移動する際にさまざまな扮装の行列が伴います。始めて行われた祭礼では、まず先頭に場を清め鎮める役として棒振や獅子、田楽、八乙女といった「先の渡り物」が歩きます。
 続いて進むのは「練り物」です。薙刀振・大刀差し・銀の花籠・西王母の作り物・高野聖・唐人・鷹匠・赤母衣・鶴の作り物・連尺・唐船の作り物・猿曳・鐘巻の作り物・弁慶・不動・毘沙門・餅つき・傘鉾・餅花持・面掛等々約70種の、風流尽くしの大変豪華な行列だったことがわかります。
 さらに「後の渡り物」として神馬・鉄砲・槍・弓などが続き、そして三基の神輿が進んでいったのです。かつての行列のにぎやかなようすは、東照宮縁起絵巻(紀州東照宮蔵)などの資料からもうかがえます。
和歌祭神輿20100302 急な石段を降り下りる神輿

 和歌祭の規模は時によって変化しました。徳川頼宣の在世中には、当初は大変豪華だった行列も、家康50回忌の寛文5年(1665)を区切りに規模を縮小させています。また当初は国を挙げての祭りとして、和歌山城下の町衆も多数参加して行われていましたが、次第に東照宮が立地する和歌浦周辺の村々住民の参加が多くなり、和歌浦の地域の祭りとしての性格も帯びてきます。
 実はこのことこそが、近世から近代へと時代が変わり各地の東照宮祭礼が衰退する中で、幾度もの断絶がありながらも地域の人びとの結束によって渡御行列が今日まで継続した要因と考えられます。
 踊り方や囃子、持ち物など、かつてのあり方から変容したり途絶えたものもありますが、それでも渡御行列が引き継がれてきたことにより、かつての人びとが感じた祭礼の高揚感を現在の私たちも感じることができます。

 近年は、和歌祭保存会や和歌祭実行委員会の活動をベースに、途絶えていた囃子が復興されたり(唐舩御船歌連中)、使用する道具を参加者自らが作ったり(忠棒)、また市民の協力で新作仮面が寄付されたり(面掛)するなど、多くの市民がに参加しながら、祭りの積極的な維持・継承が図られています。(学芸員 大河内智之)
和歌祭面掛20100302 面掛のようす


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