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特別展「京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?」コラム(2)

本御塔・新御塔と阿弥陀如来像

 現在の安楽寿院の北側には鳥羽天皇陵、西側には近衛天皇陵があります。

01鳥羽天皇陵 02近衛天皇陵
(鳥羽天皇陵)                  (近衛天皇陵)

 鳥羽天皇陵内に三重塔が建てられるのは保延5年(1139)、近衛天皇陵内に塔(多宝塔か三重塔かは不明)が建てられるのは保元2年(1157)ごろとされています。
この二つの塔が建てられた際、一体ずつ阿弥陀如来像が安置されました。

      03重要文化財 阿弥陀如来坐像(安楽寿院蔵)              04阿弥陀如来坐像 新御塔
(鳥羽天皇陵の阿弥陀如来像、安楽寿院蔵) (近衛天皇陵の阿弥陀如来像、宮内庁書陵部蔵)
(二体の阿弥陀如来像の美術史上の位置づけは、前回紹介した図録をご覧下さい)

 塔内に安置された「両御塔本尊」(二体の阿弥陀如来像)は、天文22年(1553)から23年にかけて修理が行われます。
このとき記された修理銘には、安置場所として「本御塔」の名が記されています。
遅くともこのころには、鳥羽天皇陵の塔は本御塔、近衛天皇陵の塔は新御塔と呼ばれていたようです。

 その後、本御塔は永禄年間(1558?70)に焼失し、新御塔も文禄5年(1596)に京都を襲った大地震で倒壊したようです。
慶長11年(1606)、近衛天皇陵内にある新御塔は、豊臣秀頼によって多宝塔として再建されました。
このとき、二体の阿弥陀如来像の修理が、七条仏師の康正によって行われたようです。
また、慶長17年には、鳥羽天皇陵内にある本御塔が、仮堂として再建されています。
塔頭の一つ遍照院の住職を勤めた覚栄(かくえい、??1622)が安楽寿院の復興を行っていた時期に、新御塔や本御塔の再建が行われたことがわかります。

 それから250年余り経た文久2年(1862)、江戸幕府によって天皇陵の修陵事業が始まりました。
このとき、京都の絵師である鶴沢探真(つるざわたんしん、1834?93)は修陵前の様相を描いた荒蕪図と、修補後の様相を描いたとされる成功図を作成しています。
本御塔・新御塔の修理が行われるのは、元治元年(1864)?慶応元年(1865)のことで、本御塔と新御塔についても、荒蕪図と成功図が作成されています。

05本御塔 荒撫図 06新御塔 荒蕪図
(本御塔・荒蕪図)         (新御塔・荒蕪図)
08本御塔 成功図 07新御塔 成功図
(本御塔・成功図)         (新御塔・成功図)         いずれも、国立公文書館蔵
 本御塔の二つの図を比較すると、本御塔は荒蕪図では慶長17年に建てられた仮堂が描かれているのに対して、成功図では方形造の建物(法華堂)が描かれています。
このことから、鳥羽天皇陵にあった本御塔(仮堂)は、幕末のころ陵外に移されたと理解されるようになりました。

 ところが、最近行った安楽寿院の調査によって、明治時代初めの安楽寿院の境内を描いた絵図の存在が明らかになりました。
この図には本御塔は陵内に新たに建立された法華堂のすぐ隣に描かれています。

09本御塔 明治初年
(安楽寿院境内図・本御塔付近、安楽寿院蔵)

 この境内図が実景を描いたものとすれば、少なくとも幕末の修陵事業では本御塔は移されたものの、なお陵内に残っていたことになり、本御塔が陵外に移されるのは、明治になってからとなります。

10本御塔
(昭和15年ごろの本御塔、安楽寿院蔵)

 陵外に移された本御塔は、昭和36年(1961)の第二室戸台風によって損壊し、解体され、現在は残っていません。
しかし、850年以上の長い年月の間に、建物が火災や地震に会い、安置場所は変っていきますが、二体の阿弥陀如来像は、今もなお大切に守り続けられています。
(主任学芸員 前田正明)

→和歌山県立博物館ウェブサイト
→特別展 京都・安楽寿院と紀州・?あらかわ?
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