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コラム 根来寺の今と昔? 公権力としての根来寺を支えていたもの

延命院泉秀房に宛てた田地の売渡状 画像クリックで拡大します。

公権力としての根来寺を支えていたもの

 1998(平成10)年、当時の粉河町(現・紀の川市)上田井にある極楽寺の天井裏から、33通にのぼる中世の古文書が発見された。まだまだ埋もれた文化財が多い和歌山県内でも、江戸時代以前の古文書がこれほどまとまって新たに見出されることはほとんどなく、大きな発見であった。しかも、この古文書は若干の虫食いがあるものの、おおむね保存状態もよく、発見した粉河町文化財保護審議委員会(当時)のメンバーの手によって、保存措置と内容の解読が順次進められた。
 この古文書の中には、戦国時代の根来寺の院家に属する人々が、周辺の田畠の売買をおこなった際に取り交わした証文が多数含まれている。中でも注目されるのは、前回このコーナーで紹介した朱漆塗の椀の底に書かれた「延命院」の名前が、この文書のうちの7通にみえることである。椀の底に書かれていたのは「延命院」という院家の名前だけであったが、文書では延命院に属する泉秀房および大貳殿という人物が、それぞれ独自に、例えば田中荘打田村や中井坂村にあった田畠などの売買をおこなっていたことが分かり、当時の根来寺では、院主ではない、下級の僧侶までもが単独で土地の売買をおこなう経済能力を有していたことがうかがえるのである。戦国時代の根来寺の経済的な富裕ぶりがみてとれよう。
 さらに、写真に示した文書では、土地を買い取った延命院泉秀房に対し、「年貢米は『国守番』に納めること」との指示が記されている。「国守番」とは、詳細は不明ながら、領主に代わって年貢徴収を代行する番頭のような存在と考えられ、別の文書では、「番方」「番代侍中」などとして売買の成立を保証する役割も果たしている。「侍中」という文言から、彼らが土豪的な活動を通じて地域社会の秩序維持機能を果たしていた様相も垣間見えてくる。根来寺は、こうした勢力とうまく連携しながら、強大な戦国大名が登場しなかった紀北から泉南にかけての地域社会で、これに代わる公権力としての立場を築きあげていったのである。(学芸員 高木徳郎)

企画展 根来寺の今と昔
和歌山県立博物館ウェブサイト
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