fc2ブログ

Entries

下湯川観音堂に3Dプリンター製お身代わり仏像を奉納しました(平成29年7月28日)

 和歌山県立博物館では、和歌山県立和歌山工業高等学校の協力を得て、3Dプリンターを用いた文化財の精巧な複製を制作し、文化財の防犯対策を行っています。これは高齢化や人口減少などの要因により、管理や保全が困難になっている地域の寺社等にある文化財を博物館等で保管し、かつ、信仰されてきた環境も従来通り維持するための取り組みで、平成24年度から28年度までの5年間に、県内10か所の寺社に21体の複製を安置してきました...

下湯川観音堂への観音菩薩立像複製の奉納について(プレスリリース)

下湯川観音堂への観音菩薩立像複製の奉納について 和歌山県立博物館では、和歌山県立和歌山工業高等学校の協力を得て、3Dプリンターを用いた文化財の精巧な複製を制作し、文化財の防犯対策を行っています。これは高齢化や人口減少などの要因により、管理や保全が困難になっている地域の寺社等にある文化財を博物館等で保管し、かつ、信仰されてきた環境も従来通り維持するための取り組みで、平成24年度から28年度までの5年間に、...

コラム 大村家長屋門の近代

大村家屋敷の主屋や長屋門は、明治30年(1897)ごろに和歌山城の1.5km程南の堀止東に移築されました。移築したのは陸軍を退役したばかりの白樫甚一氏(1847~1918)で、白樫本家から分家するにあたり、自らの住まいとするためでした。 写真 白樫甚一氏 個人蔵 〔今回展示していません〕主屋には白樫家の家族が住まい、長屋門は表門の機能のほか借家にも使われました。大村家の主屋は現存していませんが、白樫家に残されていた...

コラム 大村家長屋門の瓦

大村家長屋門の屋根は入母屋造の本瓦葺で、平瓦と丸瓦を組み合わせて葺かれています。 旧大村家住宅長屋門の本瓦葺の屋根軒先や鬼瓦には、大村家家紋の桔梗が造り出されています。 桔梗紋軒丸瓦 和歌山市蔵 〔展示番号48〕軒丸瓦や鬼瓦には、「泉州深日 源四郎」の刻印や、へら書きが見られ、現在の大阪府泉南郡岬町深日の瓦屋で製作されたことが分かります。当地は江戸時代から明治時代にかけての瓦の一大生産地で、「谷川...

コラム 大村家長屋門の建築

大村家の長屋門は、木造、平屋建一部二階建、桁行12間、梁間2間半、入母屋造、本瓦葺の建築です。 和歌山市指定文化財 旧大村家住宅長屋門 白樫家(旧大村家)屋敷古写真 個人蔵 〔展示番号45〕建築面積は136.1㎡(約41坪)になります。門構えに、部屋を連ねた典型的な長屋門形式で、海鼠壁や本瓦葺の屋根に家の格式が表されています。建設年代は不明ですが、形式手法から江戸時代末期と見られます。元は現在の県庁の北西に建...

コラム 10代藩主徳川治宝と大村家・児玉家

寛政元年(1789)、徳川治宝は19歳で紀伊藩10代藩主となりました。治宝は藩財政の立て直しのため藩政改革を行い、年貢増徴や諸産物の専売制を行いました。また、中・下級家臣を抜擢し、家老らの門閥派を中心とした藩政の流れを変えようとしました。その一方で、文雅を楽しむ政策も行い、これが財政難を引き起こす要因となったともいわれています。文政7年(1824)、治宝は藩主の座を婿養子である斉順に譲りました。しかし、隠居後...

コラム 紀伊藩士髙城家について

髙城家の初代とされる庄蔵重弘は、北条氏落城後、徳川家康に切米100俵で鷹匠として召し抱えられ、その後、駿府城で徳川頼宣の「御付」として切米30石が与えられました。元和5年(1619)、頼宣の紀伊国転封にともなって、紀州に入国しています。 髙城家家紋入り陣笠 個人蔵 〔展示番号38〕鷹匠を家業とした髙城家には、鷹道具がたくさん残されています。その多くは、庄蔵重張を初代とする分家の髙城家に伝来したものと考えられ...

コラム 海御座船と川御座船

寛永12年(1635)の武家諸法度で、江戸幕府は諸大名に対して、500石積以上の軍船の建造を禁止しました。しかし、中国・西国筋の大名は参勤交代で大坂まで海路をとるため、500石積の制限内で藩主が乗船する御召関船(海御座船)を建造しました。紀伊藩では、和歌祭の「船舞」にも使用されました。河川用の御座船は、川御座船と呼ばれました。 川御座船「龍門丸」扁額 宝来山神社蔵〔展示番号35〕  龍門丸蓬莱丸図のうち龍門丸 ...

コラム 大抜擢された野呂介石

寛政5年(1793)、野呂九一郎(介石)は紀伊藩士に取り立てられ、翌年三の丸に屋敷地が与えられました。 野呂九一郎先祖書・親類書 和歌山県立文書館蔵 〔展示番号32〕紀伊徳川家10代藩主である徳川治宝に認められ、大抜擢されたといえます。 和歌山城下町絵図(部分) 和歌山県立博物館蔵 〔今回は展示していません〕 屋敷の庭に老梅の木があったことから、「矮梅居」と呼ばれました。 墨竹図押絵貼屛風 右隻(部分) ...

Appendix

月別アーカイブ

カテゴリー

ブログ内検索

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カウンター