加納久通(1673~1748)は、紀伊藩士加納政直の次男として和歌山で生まれ、吉宗の側近として活躍しました。 加納家系図 和歌山県立博物館蔵 〔展示番号27〕 享保11年(1726)、所領(伊勢国・上総国・下総国)が1万石となり、大名格となりました。当初陣屋は伊勢国東阿倉川(三重県四日市市)に置かれました。兄政信の五男久堅を養嗣子に迎え、久周→久慎→久儔→久徴と続きました。久儔の時、陣屋は上総国一宮(千葉県一宮町)に...
加納家は、三河国加納村(現在の愛知県豊田市)に居住した松平泰親(泰親から7代後が徳川家康)の6男久親が始まりとされます。 加納家系譜 和歌山県立博物館蔵 〔展示番号26〕慶長13年(1608)、加納平右衛門久利は家康から200石の知行が与えられました。 加納家旗指物図 和歌山県立博物館蔵 〔展示番号28〕その後、久利は頼宣に付けられ、元和5年(1619)頼宣の紀伊入国に同行し、紀伊藩士となっています。家康の命によ...
三浦家はもと平氏の流れをくみ、6代為通の時、相模国三浦に居住し、「三浦姓」を名乗りました。のち安房国に移ると「正木姓」に改名し、為春の代に「三浦姓」に復したといわれています。為春の異父妹が徳川家康に仕え、頼宣を産むという縁故もあって、慶長3年(1598)に家康から3000石の知行が与えられ、同8年には頼宣の傳役を命じられました。元和5年(1619)、為春は頼宣の紀伊入国に同行し、8000石が与えられています。現存...
家紋は中世以来、戦場での敵味方を識別するために旗や幟に家の印(「旗紋」)をつけ、その存在を明らかにするものとして使用されました。上級武士の場合は、陣幕などに自家の紋(「幕紋」)をつけた場合もあったようです。家紋は、まさに戦う際の団結の象徴ともいえるものでした。 ところで、家紋瓦が盛んに使用されるようになるのは豊臣秀吉のころといわれます。慶長3年(1598)に行われた大坂城三の丸の造営で、大名屋敷に家紋...
滴水瓦とは朝鮮半島に由来する軒平瓦の一種で、逆三角形の瓦当部をもっているのが特徴です。この滴水瓦は、和歌山城内の発掘調査でも出土しています。滴水瓦が日本に伝わるきっかけとなったのは、豊臣秀吉が行った朝鮮侵略(1592年の文禄の役〔壬辰倭乱〕と1597年の慶長の役〔丁酉倭乱〕)でした。このとき、朝鮮半島から宮殿や寺院に使用されていた「李朝瓦」が日本に運ばれ、瓦職人も連れてきたといわれています。関ヶ原合戦後、...
慶長8年(1603)、頼宣は2歳で水戸城主となり、8歳で駿府城主となりました。 徳川頼宣像 和歌山県立博物館蔵 〔展示番号3〕この間、頼宣は父・家康から、家康自身の家臣(「御付」衆)が分与され、家臣団の中核をなしていました。 徳川家康像 紀州東照宮蔵 〔展示番号1〕そのなかでも最も有力な家臣が、のちに付家老と呼ばれる安藤・水野・三浦・久野の4家で、石高・格式で群を抜いていました。 安藤直次像 和歌山県...
今年2回目の職場体験は、和歌山市立河北中学校です。生徒さん2人が、6月13日(火)~15日(木)の3日間、職場体験に来てくれました。【初日 6/13】まずは、毎回恒例、朝礼での挨拶・自己紹介をしてもらい、そのあと、博物館の施設見学を行いました。マイクロフィルムやカラーポジフィルムも、見てもらいました。フィルムカメラはもとより、デジカメも使わないとのこと…。スマホ時代になりました。午後はさっそく、博物...
平成29(2017)年度職場体験① 貴志中学校今年も、職場体験(インターンシップ)の季節がやってきました!第1回目は和歌山市立貴志中学校です。生徒さん2人が、6月6日(火)~8日(木)も3日間、職場体験に来てくれました。【初日 6/6】まずは、毎年恒例、朝礼での挨拶・自己紹介をしてもらい、そのあと、博物館の施設見学を行いました。博物館の裏側まで全てを見学して、たくさんの人が働いていることを知ってもらいまし...
10日(土)から、企画展「紀伊徳川家の家臣たちⅡ」が始まりました。会場はこんな感じです。 11日(日)のミュージアムトークでは、15人の参加がありました。この企画展では、紀伊徳川家ゆかりの資料や所在が明らかになった紀伊徳川家に仕えた家臣の家に伝来した資料から、紀伊徳川家や家臣たちの実像に迫ります。また、近年行われている和歌山城三の丸の発掘調査や岡公園へ移築された紀伊藩士旧大村家住宅長屋門(和歌山市指定文...