2008-05

コラム 高山寺の文化財(5) 浦宏の考古学研究

高山寺蔵骨器 高山寺鉄鉢 画像クリックで拡大します。
左:蔵骨器(丸橋丘火葬墓出土) 右:鉄鉢(丸山古墳出土) )
浦宏の考古学研究

 昭和初年ころから、田辺地域では民間の研究者による考古学の調査・研究が行われるようになり、昭和6(1931)年には、湊村の元村長で文物に造詣の深かった佐山伝右衛門を会長として、紀南考古学会が設立された。佐山のほか、細尾栄一・竹中仁一・中村兵助・浦宏といった会の中心的なメンバーは、岩倉山遺跡・三栖廃寺・下芳養遺跡などの重要な遺跡を調査し、さらに昭和13年9月〜11月には、高山寺の境内において、全国的に有名になった高山寺貝塚(縄文時代早期−約8000年前)を発掘している。
 そのメンバーの一人であった浦宏は、郷土の考古学的探求に貢献するために、雑誌『紀伊考古』を発行して、同志に研究発表の場や研究動向の情報を提供するとともに、自らも広く調査・収集活動を行っている。浦は、原豊次郎の経済的支援を得て、「原(はら)古代文化研究所」の専任研究員として田辺地域を中心とした考古学の調査・研究に没頭した。
 太平洋戦争の末期には、田辺でも空襲の被害が予想されたため、原古代文化研究所に収集された多くの出土遺物や学術資料は、浦の養子先となった上富田町岩田の小倉家に疎開され、その後一括して高山寺に収められることになる。
 高山寺に残されているこれらの資料は、伊勢田進氏らによって整理され、今日まで伝わってきたものであるが、前述した遺跡のほか、綱不知遺跡(白浜町)・丸山古墳(紀の川市貴志川町)・丸橋丘火葬墓(田辺市)・高野山奥ノ院経塚(高野町)などから出土した、県内外の重要な遺物が含まれている。浦宏による未発表原稿・図面・写真アルバム・拓本類などとともに、再評価・再検討が求められよう。
 これまで5回にわたって紹介してきたように、高山寺には非常に多種多様な文化財が収められている。一つの要因として、その立地などから推測するに、高山寺が田辺の人々の「拠りどころ」のような存在であったためではないかと考えられる。今なお多くの謎も残されており、今後とも高山寺の実像について迫ってゆくことが必要であろう。(学芸課長竹中康彦)

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コラム 高山寺の文化財(4) 熊楠の書いたはがき

熊楠葉書1 熊楠葉書2 画像クリックで拡大します。
左:大正8年11月27日付けはがき 右:大正10年10月8日付けはがき
熊楠の書いたはがき

 田辺に拠点を置いて活躍した博物学者・南方熊楠は、柳田国男や白井光太郎といった学界の著名な学者と交流を結んだことはよく知られているが、同様に地元のさまざまな人との色々なやりとりがあったことも忘れてはならない。
 高山寺に所蔵されている熊楠に関わるいくつかの資料のうち、2枚のはがきがある。これらはいずれも、田辺在住の画家・楠本秀男にあてて出されたものである。楠本は下秋津の出身で、東京美術学校(現在の東京芸術大学)で日本画・洋画を学び、帰郷後は家業の薬店を営みながら作画を行っていた。
 大正8(1919)年11月27日付けのはがきは、翌年が申年なので雑誌『太陽』へ「猴(さる)に関する民俗と伝説」という文章を掲載したいが、手が震えて挿絵をうまく描くことができないので、11月中に代わりに挿絵を描くために熊楠宅に来てほしいと依頼するものである。実際出版された雑誌には挿絵が11点みられるので、これらは楠本が描いたものかも知れない。晩年の熊楠は、体の衰えから写生が困難になり、楠本や川島草堂らの地元の画家に協力をあおいでいる。
 もう1通の大正10年10月8日づけのものには、淡彩でキノコを描いたスケッチがみられる。文面によると、このキノコは楠本が熊楠のもとに持ち込んだものらしく、ウスタケの一種で他にみられない珍しい特徴を持っているので、多く採集して乾燥・保管し、新種として発表するように楠本に勧めている。なお、この月の末から1か月間、熊楠は楠本を伴って2度目の高野山菌類採集調査を行った。
 昭和16(1941)年12月29日に熊楠は亡くなり、その墓が高山寺にあることはよく知られている。墓石に刻まれた文字は、熊楠の自筆原稿から雑賀貞次郎が選び出したものである。(学芸課長竹中康彦)

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「和歌祭」が和歌山城下で開催されました。

面掛行列1 面掛行列2 和歌祭・面掛行列のようす
 去る5月18日、和歌山城下で「和歌祭」が行われました。和歌祭は、徳川家康を祀る紀州東照宮の春の例大祭です。いつもは東照宮がある和歌浦で行われますが、今年は、和歌山城再建50周年を記念した「城フェスタ」に協賛して、城下での開催と相成ったのです。
 和歌祭では、社殿での神事ののち、神輿が御旅所に向かう際、神輿の後ろにさまざまな練り物がついて大行列を作りました。例えば山車、唐人、母衣、長刀振、申曳、傘鉾、雑賀踊、餅撞踊などなどがあったことが江戸時代の記録から分かります。その中の一つに、仮面をかぶった仮装行列があります。面掛、面被、百面などとよばれるもので、ここでは面掛行列と表します。 
 この面掛行列、始められた当初は38人の集団で、のち79人に増えた時期があったようです。そして実際には東照宮に約100面の仮面が残されていますので、行列の構成員がたいへん増えた時期もあるようです。時代とともにその芸態は変化しており、現在は派手な装束をまとい、高下駄を履き、がらがらと音を鳴らしながら子どもを驚かせるという内容です。特に変化しているのは、全員顔に歌舞伎の隈取りのようなペインティングを施して、お面は頭にかぶったりして脇役になりつつあることです。
 ところでこの面掛行列で使用されてきた仮面は、中世〜近世に制作された能面・狂言面・神事面・神楽面などからなるもので、他には類例のない古い仮面がたくさん含まれています。面掛行列で使用されたが故に、とても古い仮面が今日まで残ったといえ、「奇跡の仮面」といってもよいでしょう。しかもそういった事実は、つい最近になって判明したことなのです(和歌山県立博物館の平成17年開催特別展「きのくに仮面の世界」)。中世仮面が新たに大量に見つかることは全国的にみてもまれなことです。
面掛行列3
 例えばこの写真に写っているお面は、桃山〜江戸初期頃の小飛出という能面(後ろの裃着けて笠をかぶった祭奉行は和歌山市長さん)。破損したり色の塗り直しもあったりしますが、できばえの優れた貴重な仮面が今でも現役で使われているのです。そういった優れた仮面の収集には紀伊徳川家の関与も想定されるところです。近年はこれら仮面の保護のため、NPO和歌の浦万葉薪能の会が新たな仮面を製作・奉納し、使用する仮面の切り替えが図られつつあります。
 和歌山県立博物館では、この面掛行列で使用されてきた仮面群の全てを一堂に展示する企画展「奇跡の仮面、大集合!―紀州東照宮・和歌祭の面掛行列―」を7月19日(土)から8月31日(日)の会期で開催します。誰も見たことがなかったその仮面群の全貌を、ぜひとも多くの皆様にご鑑賞頂きたく存じます。
 企画展開催に併せて、全仮面を掲載する図録も作成いたします。この和歌山県立博物館ニュースでも、どんどん情報をご提供致しますので、なにとぞご注目下さい。(学芸員大河内智之)

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特別展「田辺・高山寺の文化財」開催中!(7)

高山寺講演会2 高山寺講演会1
 5月18日、京都大学大学院教授泉拓良さんを講師にお迎えして、記念講演会「縄文時代早期高山寺式土器(8000年前)の広がりとその文化」を開催しました。
 考古学の学史や人物史を踏まえながら高山寺貝塚の学問上の位置付け、資料の重要性を、わかりやすくお話し頂きました。
 ご聴講頂きましたたくさんのお客様に、心よりお礼申しあげます。(学芸員大河内)


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コラム 高山寺の文化財(3) さまざまな経典

高山寺大般若経 高山寺仏説阿弥陀経
画像クリックで拡大します。
左:大般若経 右:仏説阿弥陀経
さまざまな経典

 高山寺には、非常に多くの経典類が伝来している。平成4(1992)年から平成11年にかけて、高知大学の山本秀人教授を代表とした調査団により、それらの全般にわたる調査が行われ、70箱以上の経箱に経典類が収納・保管されていることが判明した。
 大半は、江戸時代中ごろに住職をつとめた第10世・義澄や、明治時代後半の第15世・毛利清雅らによって自他の教学のために収集された冊子本である。しかしそれら以外に、注目すべき古経典がいくつか伝来している。
 まずあげられるのが、奈良時代後期に書写された大般若経の1巻と、平安時代後期に書写された紺紙金字の阿弥陀経1巻である(いずれも市指定文化財)。寺伝で、前者は弘法大師筆、後者は聖徳太子筆といわれるように、高山寺にとって非常に重要な経巻と位置づけられており、江戸時代以前から高山寺に伝来していた可能性がある。筆者は不明であるが、黄麻紙にやや太めの謹厳な楷書で記された奈良写経、紺に染めた紙に銀で界線を引き、金字で記した平安後期の装飾経という、それぞれの時代の写経の特徴がよく表れている。
 また、近代の第18世住職・曽我部光俊が収集した経巻類にも、貴重なものが含まれている。例えば、鎌倉時代や南北朝時代に、現在の大分県由布市・兵庫県加東市・大阪府和泉市・河内長野市などの地方の寺社で書写された写経がある。また、鎌倉時代・室町時代・江戸時代に、それぞれ高野山の金剛三昧院・奈良の東大寺・京都の北野経王堂において出版・発行された刊経もみられる。
 このように、1つの寺院に多種多様な経典が残されているのは珍しいことであり、これも文化財を呼び寄せる不思議な吸引力を持った高山寺の特徴を表す、一つの事例であるといえよう。(学芸課長竹中康彦)

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コラム 高山寺の文化財(2) 長沢芦雪の来訪

寒山拾得図 柳に烏図 画像クリックで拡大します。
左:寒山拾得図(県指定文化財) 右:柳に烏図(県指定文化財)
長沢芦雪の来訪

 「天正の兵乱」(秀吉軍の南征)によって一時は荒廃した高山寺(当時は勧修寺もしくは願成寺と呼ばれていた)は、中興の僧・空増によって復興の道を歩み始めた。伽藍の整備が順次行われるのと同時に、江戸時代の中期以降、多くの書画が奉納されていることが、現存する文化財から確認することができる。
 高山寺に伝来する近世絵画のうち、もっとも代表的なものが長沢芦雪の作品である。長沢芦雪は、丹波・篠山藩の武士の家に生まれるが、京都の画人・円山応挙について絵を学び、若くして頭角をあらわした。芦雪は、天明6年(1786)10月ころから、応挙の名代として紀南の寺院におもむき、成就寺(串本町西向)・無量寺(串本町串本)・草堂寺(白浜町富田)において多くの障壁画の作品を残している(いずれも国指定重要文化財)。それらの仕事を終えた芦雪は、天明7年2月12日に高山寺にも立ち寄り、3〜4日の間にいくつかの作品を描いた。実はここで述べたことは、当時の高山寺住職であった義澄が残した記録「三番日含」(県指定文化財)の記載に全てもとづいている。さらに興味深いことに、近年全国的にファンの多い芦雪であるが、その人生には謎が多く、彼の素性・経歴についてここまで詳しく記したものは、この「三番日含」をおいて他はないという。
 現在、高山寺に伝来する芦雪の作品は、「寒山拾得図」・「柳に烏図」(いずれも県指定文化財)、そして「朝顔図襖」(市指定文化財)である。「寒山拾得図」は幅160センチもある大幅、一方「柳に烏図」は幅27センチという細長い作品であるが、いずれも一気に筆を走らせて書き上げたものである。しかし、大胆な構図や空間の処理には、芦雪の特長がよく表れている。なお、「朝顔図襖」6面は10年ほど前に巻かれた状態で「発見」されたもので、現在は修理・復原されて、京都国立博物館に寄託されている(今回の特別展では展示していない)。(学芸課長竹中康彦)

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特別展「田辺・高山寺の文化財」開催中(6)

高山寺弘法大師
 本日は、列品解説「新出弘法大師坐像と聖徳太子立像」を学芸員大河内智之が講師を務めて行いました。25人ほどの皆様にご参加頂きました。会場の風景を撮影してもらうのを忘れましたので、画像はございません。かわりに、今日お話しした新出の弘法大師坐像についての大胆な仮説をご披露。
 田辺の地は、弘法大師行状絵詞や高祖大師秘密縁起の「稲荷契約」の説話では、弘法大師が稲荷明神と出逢った場として登場します。その後東寺に大師を尋ねた稲荷明神は歓待を受け、伏見の地に居住地をもらったとされます。現在の伏見稲荷ですね。ではなぜ稲荷明神は田辺にいたのでしょうか。
 ここで注目されるのが熊野信仰。熊野三山への道中には、九十九王子と呼ばれる小社が多数あります。その中でも重要な五体王子と呼ばれる一つに稲葉根王子があり、その祭神は稲荷明神です。稲葉根王子が所在するのは上富田町。田辺のすぐそばです。熊野の祭神などを描いた熊野曼荼羅でも、稲束を担いだ稲荷明神が描かれます。熊野信仰が皇族・貴族・武士などに熱狂的に受け入れられた中世、田辺のあたりは、稲荷明神祭祀の地として認識されていた可能性があります。
 弘法大師の縁起が編纂された際、稲荷明神と大師のエピソードを作る上で、田辺という場が選択されたのは上記のような事情があったのではないでしょうか。その、「大師ゆかり」の地に残される鎌倉時代後期の新出弘法大師坐像は、まさしくこれら一連の大師縁起の形成と無関係とは思われません。縁起との関わりで、中央側のプロデュースによって大師像が安置され、信仰の核を形成したのではないでしょうか。
 仮説が大胆すぎて、まだ資料の裏付けをとれていませんが、守られ残されてきた大師像からこんな地域の歴史もものがたれるのではないかと、少し期待をこめてお話しさせて頂きました。ご聴講の皆様、お楽しみ頂けましたら幸いです。

 なんどもお知らせさせて頂いておりますが、記念講演会「縄文時代早期高山寺式土器(8000年前)の広がりとその文化―環境・生活・土器文化圏―」京都大学大学院教授 泉 拓良さんを講師にお迎えして、来る5月18日(日)午後1時30分〜午後3時の予定で開催致しますので、ぜひご参加下さい。参加をご希望されますお客様は、電話073-436-8670、あるいはFAX073-423-2467(FAXの場合は参加者名前、住所、電話番号をお示し下さい)にてお申し込みをお願い致します。博物館受付でも承っております。当日、席に余裕がある場合は、お申し込みなしでもご聴講頂けます。

 博物館は、明日7日は休館ですので、お気を付け下さい。皆様の御来館をお待ち致しております。(学芸員大河内)

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特別展 田辺・高山寺の文化財
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特別展「田辺・高山寺の文化財」開催中!(5)

高山寺列品解説2 画像クリックで拡大します。
 本日は、列品解説「芦雪画の魅力」を学芸員安永拓世が講師を務めて行いました。ご参加頂きました皆様、ありがとうございました。明日6日は「新出弘法大師坐像と聖徳太子立像」(講師:学芸員大河内智之)と題して、1時30分より行います。ゴールデンウィークの最終日、博物館でごゆっくりお過ごし下さい。

 記念講演会「縄文時代早期高山寺式土器(8000年前)の広がりとその文化」京都大学大学院教授 泉 拓良さんを講師にお迎えして、来る5月18日(日)午後1時30分〜午後3時の予定で開催致します。席にまだまだ余裕がございますので、ぜひご参加下さい。参加をご希望されますお客様は、電話073-436-8670、あるいはFAX073-423-2467(FAXの場合は参加者名前、住所、電話番号をお示し下さい)にてお申し込みをお願い致します。博物館受付に直接お申し込みいただくこともできます。当日、席に余裕がある場合は、お申し込みなしでもご聴講頂けます。

 皆様の御来館をお待ち致しております。(学芸員大河内)

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特別展「田辺・高山寺の文化財」開催中!(4)

高山寺列品解説1 画像クリックで拡大します。
 本日は、1時30分より列品解説「高山寺の考古遺物」(講師:副館長武内雅人)を行いましたところ、多くの皆様にご参加頂きました。ありがとうございました。
 列品解説は、明日5日は「芦雪画の魅力」(講師:学芸員安永拓世)、明後日6日は「新出弘法大師坐像と聖徳太子立像」(講師:学芸員大河内智之)を、それぞれ1時30分から開催します。

 記念講演会「縄文時代早期高山寺式土器(8000年前)の広がりとその文化」京都大学大学院教授 泉 拓良さんを講師にお迎えして、来る5月18日(日)午後1時30分〜午後3時の予定で開催致します。席にまだまだ余裕がございますので、ぜひご参加下さい。参加をご希望されますお客様は、電話073-436-8670、あるいはFAX073-423-2467(FAXの場合は参加者名前、住所、電話番号をお示し下さい)にてお申し込みをお願い致します。当日席に余裕がある場合は、当日の受付でもご聴講頂けます。

 皆様の御来館をお待ち致しております。(学芸員大河内)

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特別展「田辺・高山寺の文化財」開催中!(3)

高山寺博物館講座 画像クリックで拡大します。
 博物館講座「田辺・高山寺の魅力」を当館学芸課長竹中康彦が講師を務めて、開催致しました。ご来場の皆様、快晴の午後のひとときを博物館でお過ごしいただき、本当にありがとうございました。

 なお、記念講演会「縄文時代早期高山寺式土器(8000年前)の広がりとその文化」京都大学大学院教授 泉 拓良さんを講師にお迎えして、来る5月18日(日)午後1時30分〜午後3時の予定で開催致します。席にまだまだ余裕がございますので、ぜひご参加下さい。参加をご希望されますお客様は、電話073-436-8670、あるいはFAX073-423-2467(FAXの場合は参加者名前、住所、電話番号をお示し下さい)にてお申し込みをお願い致します。当日席に余裕がある場合は、当日の受付でもご聴講頂けます。

 ゴールデンウィーク中は、4日は列品解説「高山寺の考古資料」(当館副館長武内雅人)、5日は列品解説「芦雪画の魅力」(当館学芸員安永拓世)、6日は列品解説「新出弘法大師坐像と聖徳太子立像」(当館学芸員大河内智之)を、各午後1時30分から、30分程度の時間で行います。
 皆様の御来館をお待ち致しております。(学芸員大河内)

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特別展「田辺・高山寺の文化財」開催中!(2)

7時まで開館
 今年度から、春・秋の特別展期間中の金曜日は、夜7時まで開館することになりました(入館は6時30分までにお願いします)。午後6時から、毎回イブニングトークという、約30分ほどの展示解説も行います。
 お仕事帰りのちょっとしたひとときを、博物館でお過ごし下さい。職員一同、皆様の御来館をこころからお待ちしております。
 博物館の会場では特別展「田辺・高山寺の文化財」が開催中です。初公開・秘仏の弘法大師像や、長沢芦雪の傑作・寒山拾得図に、ぜひ会いに来て下さい。(学芸員大河内)

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コラム 高山寺の文化財(1) 聖徳太子孝養立像と弘法大師坐像

高山寺聖徳太子 高山寺弘法大師 画像クリックで拡大します。
左:聖徳太子孝養立像(県指定文化財) 右:弘法大師坐像
聖徳太子孝養立像と弘法大師坐像−高山寺創建にまつわる謎−

 田辺市稲成町の会津川右岸の丘陵上に位置する高山寺は、真言宗御室派の寺院である。本尊は阿弥陀如来であるが、多宝塔に安置される聖徳太子孝養立像(県指定文化財)と、大師堂(御影堂)に安置される弘法大師坐像が、ともに古くから篤い信仰を集め、非常に大きな存在感を有している。
 高山寺の歴史は、近世以前についていえば、多くの謎に包まれている。寺伝では、高山寺は聖徳太子による開基であり、またのちに弘法大師が熊野へ赴いた帰りに、この地で稲荷明神と出会い、また御影淵に映った自らの姿を彫刻にしてあらわしたという創建に関わる伝承がある。この伝承は、現在のところ他の資料によって裏付けることは困難である。
 一方、江戸時代の中ごろに編集された高山寺の歴史書「奕世年譜(えきせいねんぷ)」によれば、天正13(1585)年の「秀吉の紀州攻め」の際に境内が軍陣となり、伽藍が荒廃して、大半の記録や宝物が失われたという。そしてその直後に、中興の住職・空増によって、岩屋山観音堂に難を逃れて遷されていた聖徳太子と弘法大師の二つの像を戻して、伽藍の再興が始まったとされる。なお弘法大師の像は、もとは丘陵のふもとにあった別の堂に置かれていたという記述もみられる。こうしてみると、聖徳太子の開基・弘法大師像の自作という伝承は、江戸時代初めの状況をもとに合理的に叙述していることにはなるが、それ以前については必ずしも十分に納得のゆく説明にはなっていない。
 このたびの特別展に関わる調査では、この二つの彫刻を念入りに調査させていただくことができた。その結果、彫刻の様式から導き出される年代として、両像とも鎌倉時代後期(今からおよそ700年前)の制作であると判断した。聖徳太子と弘法大師の彫刻について、県内に残された作品としてこの段階までさかのぼるものがほとんどないという貴重さに加え、これは高山寺の創建・発展を考える上で重要な材料になるものと思われる。しかし、「なぜ聖徳太子をまつったのか」という素朴な疑問を含め、依然としてなお解決すべき多くの謎が残されているのである。(学芸課長 竹中康彦)

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