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羽柴秀吉事書写(館蔵品127)

羽柴秀吉事書写(館蔵品127)

この史料は文化遺産オンラインにも掲載済みのものです。
羽柴秀吉事書写(文化遺産オンライン)

羽柴秀吉事書写1

羽柴秀吉事書写2

【釈文】
     覚
一検校和尚法眼幷惣山一統被得心、
 以一札 叡慮江被奏達之上者、自今
 以後、当寺儀、於秀吉不可疎略事、
一金堂儀破滅之由候条、悲母為逆修可
 建立候、然者八木壱万石、秀吉可申付候、
 幷和州宇智郡一円・紀州伊都郡旧
 領外在之分、両郡合参千石事、今度可返
 進旨、当山雖有出状、此方へ非可召置候之条、
 金堂可造畢間、為造用物成事申付候、
 向後も可為金堂修理料、但金堂修理
 不入時者、何雖為堂塔、彼以物成、修理可被
 申付、為其為新寄進申付候事、
 金堂儀、各不寄老若、普請手伝以下
 不可有疎略事
 右知行物成事、無私曲年々遂算用、
 対秀吉勘定可有之旨、以血判誓紙尤候事、
 木食上人金堂之本願相憑上者、木食
 被申次第、万端可被馳走旨、是又誓紙
 肝要候也、仍如件、
                 御書判
    天正拾三年六月拾三日 秀吉
                 在之
     金剛峯寺


【活字】
『豊臣秀吉文書集』2 1456
ただし、上記史料集では、東京大学史料編纂所の高野山文書の影写本に拠っています。

【図版】
『きのくにの歴史と文化―和歌山県立博物館館蔵品選集―』和歌山県立博物館、2004年

【内容】
※文化遺産オンラインをご確認ください。


(当館学芸員 坂本亮太)

羽柴秀吉朱印状(館蔵品976)

羽柴秀吉朱印状(館蔵品976)

羽柴秀吉朱印状 クリックで画像は拡大します。

【釈文】
来三月廿一日
至紀州表可
出馬之条、人数等
馳走候て、廿一日
已前至大坂被遂
着陣肝要候而
進被下申候也

 二月十三日 秀吉(朱印)

【活字】
『豊臣秀吉文書集』2 1335号

【写真図版】
『きのくにの城と館―紀中の戦国史―』和歌山県立博物館、2014年
『戦乱の世から泰平の世へ―16~17世紀の紀北・泉南地域―』和歌山県立博物館、2016年

【内容】
羽柴秀吉は、天正13年(1585)3月21日に数万とも言われる大軍を率いて、大坂城を出発しました。
大軍で泉南の諸城を落城させつつ紀州攻めに着手し、
同月23日には根来寺・粉河寺を焼き討ちにし、
4月末までには太田城に籠もる雑賀衆に加え、高野山も屈服させ、紀州制圧を遂げました。

この史料は、羽柴秀吉が来たる3月21日に紀州へ出陣するにあたり、
事前に大坂に着陣するようにと指示を出したものです。
残念ながらこの文書では宛先が欠けており、
誰に出されたものかはわかりません。
ただ、小早川家・一柳家・中川家にも同内容の文書が伝えられており、
紀州攻めにおいて広範に武将が動員されていたことがわかるとともに、
この文書も元来、一柳家や中川家に匹敵するような勢力に出された文書かと思われます。

(当館学芸員 坂本亮太)

羽柴秀吉書状写(館蔵品262)

羽柴秀吉書状写(館蔵品262)

館蔵品の未紹介中世文書については、長文のもの、群として残されているもの以外は
概ね紹介できましたので、これからは少し既存の図録や史料集に載っているものも
紹介していきたいと思います。

羽柴秀吉書状写 クリックで画像は大きくなります。

【釈文】
去四月十九日書状、今月十五日至大坂到来令
披見候、殊為音信刀一腰盛光〈并〉大鷹〈二〉被送上候
祝著候之一段見事候間、別而令秘蔵候、随而去年
少々申事有之刻、紀州根来・雑賀催一揆、企慮
外働条、去三月廿一日出馬、五三日中諸城責崩、
悉根来・雑賀奴原不残依刎首候、泉州・紀州・
熊野浦迄平均ニ申付候、同四国長宗我部、彼悪逆
人与令同意付、為成敗、拙弟秀長并毛利右馬頭両人
申付、四国江乱入、過半任本意候、近日可刎首義案内候、
左様ニ候へ者、西国筑紫鎮西迄不残任覚悟、明隙候条、
来月廿日比ニ北国乍見物秀吉令発足、越中有之佐々
内蔵助企悪逆候条、先手之者可申付候、連年
富士山一見望候間、其刻可遂初面候、其表之義、今少々
間気遣尤候、何之道にも義重事令馳走、可任存分候
条、可心安候、早速人数等入候者、景勝江可被申越候、自此方
堅申合候間、不被残心底尤候、委細江庵江申渡候、謹言

       六月廿五日    秀吉

 秀吉任当□関白位      佐竹殿

【関連活字】
・『大日本史料』11-16
・『豊臣秀吉文書集』2 1458号
 これら史料集では、東京大学史料編纂所所蔵のレクチグラフ(成簣堂古文書 佐竹文書」)
 が掲載されており、当館所蔵資料はその写しと思われます。
 ただし、文字に若干の異同あり。

【写真図版】
・『きのくにの城と館―紀中の戦国史』和歌山県立博物館、2014年

【内容】
天正13年(1585)3月、羽柴秀吉は紀州攻めをおこないました。
この文書は、秀吉が紀州攻めの後の動向について、
常陸の佐竹義重に伝えたものです。
根来・雑賀が一揆を催したので出馬し、諸城を攻め崩し、
雑賀衆の首を悉く刎ね、熊野まで平定し、
和泉・紀伊・熊野はほとんど秀吉の支配下に入ったと伝えています。
またその後、謀反人と内通している長宗我部氏の首もじきに届くとし、
さらに続けて北陸見物もかねて越中に出張し、鎮西までも攻める予定であると述べています。
紀州攻めから、四国攻め、越中攻めなど、秀吉の天下統一に向けた動きを知ることができます。

(当館学芸員 坂本亮太)

安楽寺別当祐聖置文(館蔵品1016 紀伊国名草郡田屋村森家文書のうち)

安楽寺別当祐聖置文(館蔵品1016 紀伊国名草郡田屋村森家文書のうち)

田屋村(現在の和歌山市田屋)に居住した森家に伝来した文書です。
当館で所蔵するのは6巻(6点)で、ここで紹介するのはそのうちの鎌倉時代の文書1点です。

森家文書1_1(前半) 
森家文書1_2 (後半)
森家文書1_3 (裏書)
※画像はいずれもクリックすると拡大します。

【釈文】
記置坪付之事
  合
安楽寺垣内 弐段堂免也、此内〈壱段ハ/堂敷也〉
小者〈字藤井/買得ナリ〉〈東限地類、南限大野殿作/西限大道、北限溝〉
参百歩、字藤井〈東限田屋殿作、南限溝/西限大野殿作、北限溝、育学位牌田〉
壱段、字池田〈東限溝、南限大田屋敷名田見通/西限道三辻、北限道蓮房作、北ハ直也〉買得也
大国請田、字酒部等浦〈東ハ地類、南ハ地類/西溝、北地類、買得也〉
壱段、丸田〈東限ク子、南限堀/西限ツユノ溝、北限飯島殿ノ作〉昌信房買得也
壱段、ツユノ南ツメ〈東限溝、南岸カキル、道法ノ位牌田也/西限阿加女作、北限フチ、道蓮カ作〉
壱段、先信田〈東限大田屋敷名田、南限八講免畠/西限西名作、北限ク子、シンカイナリ〉買得也、
壱段大 買得田、同畠壱段小、〈東限大堀、南限流堀/西限江川、北西名作〉
壱段、金屋〈東限江川、南限西名作/西限大通、北限法円作〉是モ買得也
大〈竹原田/買得也〉〈東限ミソ、南限マツラカ作/西限大道、北限地類〉国請田ナリ
小、西ハシ〈東限正法寺ノ堀橋ノ下ツメマテ、南限四郎左衛門藪/西限橋、北限地類〉
-------------------------------------------------------
壱段小油免観聖之買得也〈東限道、南限岸/西限ク子、北限大堀〉
壱段、字〈宗重ノ郷/油免也〉〈東限河端殿ノ作、南限対馬殿ノ作/西限地類、北限法円作〉
小同、字スチカイ〈東限法円作、南限上座作/西限地類、北限西信作〉買得也
壱段小〈買得也/字上座垣内、堂免也〉〈東限地類、南限井溝/西限道覚ノ祖チ円覚房作〈北限/地類〉〉
弐段、阿加女垣内、堂敷也、四至、在四方
小、牛神〈東限石見守殿作、南限円名作/西限円名作、北限横道、教昌房買得也〉
右件別当職進退田畠等者、親父浄玄之
養父故左近入道殿〈法名西仏房〉当郷御
代官之時、被立置彼免田等、於別当職者、
譲与于養子浄玄了、而間、為越後法橋之
御房御計、大仲能成〈弁之殿〉相副御判而、
令補任彼浄玄了、仍為後代之、注置状、如件、
  永仁六年〈戊戌〉二月六日  別当僧祐聖(花押)
山四至アリ、八幡宮敷地等以上五段半也、
然処ニ、かわらの神御社之艮方三町巍之
フモト、島田殿ノ兄四郎左衛門尉屋敷也、〈ホウラクカ尾/乾方マテ〉

(裏書)
「堂内之寺役等外者、不可有余公事者也、依於
 田屋末孫不可有違乱煩者也、然処ニ、当 
 寺大日如来者、日本朝敵重眼之三尊〈ニテ〉
 御在也、故田屋六郎左衛門尉遁一命、依来
 彼所奉仰云々、時縄起請文、         」

【活字】
『和歌山市史』第4巻 鎌倉時代167(p418~419)
『和歌山県史』中世史料二 森家文書
で紹介されています

【内容】
永仁6年(1298)に安楽寺別当祐聖が、別当職とそれに附属する田畠を書き上げ、養子淨玄に譲り渡したものです。
田屋氏は、在庁官人・西国御家人であったと思われ、鎌倉時代の田屋の景観、
菩提寺の規模・所領がわかる資料として貴重です。
この史料のなかには、「大堀」「堀橋」「大道」「溝」などの記載もあり、
田屋氏の本拠の様相も推測することができます。
なお、東に2㎞ほどいったところには方形の堀を伴う城館跡(東城跡)が近年発見されています。
この地域周辺(国衙近傍)には同じように、西国御家人・在庁官人層が、
現在の大字(江戸時代の村)に近い単位で割拠し、それぞれが拠点を築いていました。
ここで紹介する田屋氏もそのうちの一つであったと思われます。

安楽寺は天正13年(1585)秀吉の紀州攻めの際に灰燼に帰し、以後廃絶したようです(『紀伊続風土記』)。
裏書きによると、安楽寺の大日如来は「日本朝敵重眼之三尊」で、
故田屋六郎左衛門尉が一命を遁れて、田屋氏が当所に来たことにより祀るようになったと、
その由緒が記されている点も興味深いものがあります。

また、この史料で注目したいのが、「位牌」と出てくることです。
「位牌」という文言のかなり早い事例ではないかと思います。
国史大辞典や日本国語大辞典などでは、
室町幕府将軍の「位牌」に関わるもの(「園太暦」など)が早い例のようです。
ただし、北条時頼に関わるものもあるといいます(「塵添壒囊抄」)。
ここに出てくる「位牌」がどのようなものなのか(地域への浸透)など、
あらためて検討してみる必要もあるのではないかと考えています。

なお、館蔵品の森家文書には、このほか慶長~寛永年間の文書5通があります。

(当館学芸員 坂本亮太)

熊野詣雑事書状(館蔵品1118)

熊野詣雑事書状(館蔵品1118)

今回紹介する文書は、これまで展示でも、活字でも紹介したことのないまったくの新出文書です。

熊野詣雑事書状(某書状)

【釈文】
被仰下之旨謹奉候了、指事不候々
上、連日忩忙之間、細々不参入言上候、
尤恐思給候、
抑熊野御幸中将殿御供奉間事、
付内外察申候、田部御宿雑事等
事、御注文請預候了、彼御宿辺如法
立針之地口入事候、年来仰付梅原法橋
行湛候、彼行湛代官日来在京明暁
罷下候也、仍御注文即下給候了、万方指
合纏頭無極之由、頻雖令申候、相構可沙汰進
之由、再三召仰候了、定不御事闕候也、兼又
石青緑(ママ)一裹、依仰返上之、紺青者当時消
塵不候、不日加下知、若到来候者、可返入候□
間、去朔日所労未得減候、出仕之時毎事可参
入言上候、委細□□畏申候者也、定―誠恐
頓首謹言、
  二月廿八日

【内容】
本資料は、鎌倉時代頃に書かれたと思われる書状ですが、差出・宛先ともに不明です。
箱書によると藤原定家(1162-1241)の書状として伝わります。
ただし、書体・内容も含め、定家筆とする積極的な根拠は見当たりません。
また、末尾に摺り消したような箇所が見られることから、
本来は別人の書状であったものが、いつの頃からか定家書状として伝来することになったものと思われます。
この古文書が(和歌山にとって)大事な点は、
定家書状かどうか、ということではなく、その内容にあります。

前半は熊野御幸の雑事(物資等の賦課・負担)に関することが記されています。
熊野御幸に「中将殿」が供奉すること、
「田部御宿」(田辺宿、現在の田辺市)の雑事についての注文を受け取った旨を返事しています。
田辺宿での熊野御幸雑事は、長年「梅原法橋行湛」に仰せつけていたが、
「行湛」の代官が普段は在京しているものの明日朝に(紀州へ)下向するので、
代官に注文を下し、雑事については必ず事欠くことがないようにすることなどを伝えています。
ここに登場する「行湛」は、田辺宿での雑事であることもあわせて考えると、
田辺別当家の「堯湛」の可能性が考えられます。
鎌倉時代末期頃に田辺別当家が熊野御幸の雑事を担っていたことなどがわかります。
この時の熊野御幸とは、弘安4年(1281)亀山院の熊野御幸の可能性が考えられます。
後半は、少し文意が不分明ですが、何か(緑青か)を返上することを伝える内容となっています。

詳細な解釈や位置づけなどは、今後更に検討を続ける必要がありますが、
鎌倉時代の熊野御幸と田辺宿に関わる新出史料として、
是非とも活用いただけましたらと思います。

(当館学芸員 坂本亮太)

紀武光畠地宛行状(館蔵品992)

紀武光畠地宛行状(館蔵品992)

武光畠地宛行状

【釈文】
武光(花押)
 被充下畠之事
  合七段者〈在所者神宮有真郷/之内一識進退之畠/也〉
右之畠者、国造雖為知行
神前郷之善左衛門尉依有
奉公之子細、永代被下処也、
然上者、向後向公方弥可
抽忠節者也、仍御書下如件、
          御使村垣因幡守
 享禄四年〈辛卯〉十二月吉日 調富
  善左衛門尉

※『和歌山市史』第4巻(戦国時代(一)-145号)に、神前文書として掲載されています。
 当館が所蔵している神前文書はこの1点のみ。

【内容】
享禄4年(1531)12月、紀武光が神前郷(和歌山市神前)の善左衛門に畠地7段を宛て行った文書です。
日前・国懸神宮領の有真郷(和歌山市鳴神)の畠七段(のすべての権利)について、
これまでは紀伊国造が知行していたところ、
神前郷の善左衛門に奉公の子細があるということで宛て行い、
今後は「公方」(紀国造か)に忠節を抽んずべきよう、指示したものです。
使者の村垣因幡守調冨が日下に署名し、武光が袖に花押を据えて発給するという形式になっています。

宛行状として袖に花押を記すなど、尊大な形式の文書ではありますが、
ほかの紀国造や日前宮に関わる文書では、宛行状や売券などに袖判を据える事例があり、
紀国造(日前宮)に関わる文書の特徴かもしれません。

なお、袖に花押を据える武光は、「国造侍従紀武光」として、
享禄5年に補任状を発給していることが確認できます。
紀武光が国造ではなく、国造「侍従」であることには注意が必要です
(紀武光は、紀国造の系譜には名前が見えません)。
時期的にみると、紀伊国造65代俊調、66代光雄(同母兄弟)の時期にあたります。
この二代の紀国造は、蹴鞠・和歌の名門である飛鳥井雅親との間に生まれた子で、
64代紀国造俊連は、飛鳥井雅親を紀伊に招き、歌・鞠の伝授を受けるなど、
京都の飛鳥井家との関係が非常に深まった時期にあたります。

また、飛鳥井雅親が紀伊に滞在した時に宿所としたのが、
本文書に御使として見える「村垣左衛門俊当之宅」です。

国造「侍従」による(袖判)宛行状発給の事情は現状あまりよくわかりませんが、
紀国造家の上記のような動向とも関わりがあるのかもしれません。
いずれにせよ、戦国時代の紀国造・日前宮を考えるうえで重要な文書として、
改めて注目してみる必要があるのではないでしょうか。

(当館学芸員 坂本亮太)

藤原祐長絹貢進状(館蔵品374)

藤原祐長絹貢進状(館蔵品374)


藤原祐長絹貢進状(表)
(藤原祐長絹貢進状) ※クリックで画像は拡大します

【釈文】
進上
  上品八丈絹拾疋

右紀伊国名草郡宇治保司、如本為保司為執行、
所進上如件、
   天治二年四月三日 散位藤原「祐長」

天治2年(1125)、宇治保(和歌山市宇治)保司であった藤原祐長が
これまでの通りの役職につくため、八丈絹10疋を国衙に進上した文書です。
戦国時代に鷺森御坊を中心に発展する「宇治」という地域は、
平安時代には国衙と関わる宇治保であったことがわかります。

この古文書については、文化遺産オンラインや『きのくにの歴史と文化―和歌山県立博物館館蔵品選集―』
でも紹介しているものです。
藤原祐長絹貢進状(文化遺産オンライン)
(↑クリックで文化遺産オンラインのページへ移動します)
また、活字については既に『平安遺文』に2035号文書(保坂潤治氏所蔵東大寺文書)として紹介されています。

ただ、写真を見るとわかるように、裏面(紙背)にも文字が書かれてあります。
この裏面の文字については、これまで紹介されてきていませんでした。

藤原祐長絹貢進状(裏)
※クリックで画像は拡大します。

【釈文】
  (前欠)
 \護摩儀軌〈僧皇円本/疏〉  \息災護摩啓白神分等
 \胎蔵界諸明集
     已上十二帖一結
 \十住心論一部九帖〈一結〉  \大日金剛念誦次第
○\三種悉地法文        \大日金剛念誦次第
○\毘沙門天王儀軌       \蘇悉地羯羅住\〈疏〉
 \求聞持法〈疏〉       \摂真実経抄
 \矜羯薩           \十八《界》契印
 \十八道次第         \聖閻摩徳□威怒王立成神験念誦供
 \大毘盧遮那経広大儀軌    \唐梵文字〈疏〉
 \光明真言儀軌        \西曼荼羅集
  般若破羯羅矜書像品経
  制文極秘          \孔雀儀軌
 \仏説穣麌梨童女経      \薬師次第
 \八家中密印
 \破地獄真言         \薬師頂上光明真言梵字決
 \施餓鬼儀軌         \行住生臥法
 「尊勝破地獄陀羅尼儀軌」(朱書)
 \仏頂尊勝心破地獄転業障出三界秘密陀羅尼
\○護世八天幷十天又聖天法   \延命次第
 \[       ]     \[      ]
  (後欠)

前後欠けていますが、聖教・典籍の目録(リスト)が記されています。
(保坂潤治氏所蔵の)東大寺旧蔵文書であったということからすれば、
この目録も東大寺に関わるもので、
東大寺文書のなかには、この文書に接続するものもあるかもしれません。

平安時代における東大寺と宇治保・紀伊国衙との関係、
さらには東大寺領木本荘(和歌山市)の領有問題との関係など、
今後検討していく必要があるかもしれません。

(当館学芸員 坂本亮太)

顕如書状写・教如書状写(館蔵品565)

顕如書状写・教如書状写(館蔵品565)

館蔵品の教如像とまとまって伝えられた、顕如と教如の書状の写です。
教如像については、常設展で展示したり、他館へ貸し出したりと紹介することはあったのですが、
2通の書状についてはこれまであまり取り上げられることがありませんでした。

教如像については、文化遺産オンラインで画像と解説がご覧いただけます。
教如像
↑クリックで文化遺産オンラインのページへ移動します。

顕如書状03 顕如書状02 顕如書状写01
(顕如書状写)  ※3分割しています。 画像はクリックで拡大します。

【釈文】
態染筆候、仍信長公与」和平之儀、為 禁裏被仰出」互之旨趣、種々及其沙汰」候キ、彼憤大坂退出之儀ニ相」極候間、此段新門主令直談候、」其後 禁裏へ進上之墨付ニも」被加判形候、此和平之儀者、大」坂幷出城所々、其外兵庫・尼崎」之拘様、兵粮・玉薬以下、此已」来之儀、不及了簡候、中国」衆之儀、岩屋・兵庫・尼崎引」退帰国候、今ハ宇喜多別心」之条、海陸之行不可相叶由候、」たとへハ当年中之儀者」可相拘歟、乍去敵多人数」取詰、長陣以後者、扱之」儀も不可成候、然時ハ有岡・三」木同前ニ可成行事眼前候、」忽 開山尊像をハはしめ」悉相果候ハヽ、可為仏流段絶」事歎入計候、就其、如思案」叡慮へ御請申候、如此相済候」以後、新門主不慮之企、併」いたつら者のいひなしニ」同心せられ、剰恣之訴訟」中々過法候、将又予令隠」居云々、世務等更無其儀候、」仏法相続之儀、猶以不及」其沙汰候処、諸国門下へ申」ふるゝ趣、言語道断虚言共ニ候、」所詮 開山影像守申、」去十日至紀州雑賀下向候間、」此以来諸国門徒之輩、」遠近ニよらす難路をしの」きても、 開山聖人御座」所へ参詣をいたさるへき事、可為報謝候、これに付ても」皆々仏法に心を留られ」候へく候、人間ハ老少不定」の界、出るいきは入を」またさるならひなれは、」急々他力の可有安心」決定候、されハ信をとると」いふも、なにわつらひもなく」雑行雑修をすてゝ」弥陀如来後生たすけ」給へと憑申人々ハ、必」極楽に往生すへき事」疑あるましく候、このうれ」しさにハ念仏申され」候ハんする事、肝要にて候、」此旨能々たしなまれ」候へく候、猶刑部卿法眼」少進法橋可申也、穴賢々々、」
 卯月十五日 顕如(花押影)
  江州北郡
    坊主衆中へ
    門徒衆中へ

 江州北郡
   坊主衆中へ  顕如
   門徒衆中へ

教如書状
(教如書状写) ※クリックで画像は拡大します。

【釈文】
急度取向候、当寺」信長一和之儀、すでに」相調候、さ候へハ、御方表」裏眼前候、就其予」当寺可相拘おもひ」たち候、然者、聖人之」号門弟輩者、此度尽」粉骨を馳走候はゝ、仏」法再興 聖人江可」為報謝候、さてハ安心」決定候て、称名念仏無」油断心にかけられべく候」猶各たのミ入計候、穴賢、」
 卯月三日 教如(花押影)
  江州
   北三郡中

 江州
  北三郡中 教如

2通ともに天正8年(1580)の大坂退出時にかかわり、
近江北三郡の門徒中に宛てた顕如と教如の書状の写しです。
本願寺の顕如は、元亀元年(1570)から11年間におよび、諸国の門徒に檄を飛ばし、
各地の大名と結んで織田信長と戦っていました。
顕如は織田信長と和睦後、紀州に退去しましたが(本文中にも「紀州雑賀下向」とあります)、
長氏の教如は徹底抗戦をとなえ、大坂にとどまり、さらに5ヶ月間籠城を続けました。
この時の動向については、近年、岡村喜史さんが論文を書かれています。
(岡村喜史「大坂退出についての教如の動向」『顕如』宮帯出版社、2016)

顕如書状については、
・4月15日付け 越中国坊主衆中・門徒衆中宛て(勝興寺所蔵文書、『和歌山市史』第四巻 戦国時代(二)437号)、
・4月15日付け 能州坊主衆中・門徒衆中宛て(法融寺所蔵文書、『大系真宗史料』文書記録編4 宗主消息)
・4月23日付け 堺惣門徒中宛て
・7月28日付け 奈良惣門徒中宛て(西本願寺所蔵文書、『大系真宗史料』文書記録編4 宗主消息)
などが似た文言の本文となっています。
写真については、『きのくにの歩み―人々の生活と文化―』(常設展図録)にも掲載しています。

また、教如書状については、
・4月21日付け 甲州坊主衆・門徒中宛て(超願寺所蔵文書、『和歌山市史』第四巻 戦国時代(二)441号)
がほぼ同文で、日付と宛先が異なります。

そのため、内容的に全くの未紹介文書というわけではありませんが、
これまであまり活用されたことがない文書と言うことで、ご紹介しておきます。

(当館学芸員 坂本亮太)

スポット展示「疫病平癒の霊験仏 ―杉原薬師寺の薬師如来坐像と弘法大師伝承―」(5月16日~6月21日)

スポット展示
疫病平癒の霊験仏 (えきびょうへいゆ の れいげんぶつ)
―杉原薬師寺の薬師如来坐像と弘法大師伝承―
会期:令和2年(2020) 5月16日(土)~6月21日(日)
会場:和歌山県立博物館 2階学習室スポット展示コーナー

 現在、新型コロナウイルス感染症が世界に広がり、市民生活にも大きく影響を及ぼす未曾有の事態となっています。
 歴史的には人間社会は常に疫病(えきびょう)の脅威にさらされ続けており、現代の感染症対策では、医療とともに高度な衛生観念の普及が重要な役割を果たしていて、清潔にして身を守る私たち自身の行動が感染症封じ込めの一翼を担っています。
 一方、前近代においては、人々は流行病は疫神(えきじん)や悪鬼のしわざと考え、それらを祓い清めたり、祠に祀って鎮めたほか、神仏にすがって悪疫退散を祈願しました。八坂神社(祇園社)の祭神である牛頭天王や各地で信仰を集める薬師如来がその代表です。

 紀の川市杉原(すいばら)の薬師寺にまつられる本尊の薬師如来坐像は、像高55.7㎝、檜の一木から頭体の根幹部分を彫り表した一木造で、内刳りはありません。円満な頭部の輪郭や抑揚の穏やかな体型、緊張を解いて座る姿勢など平安時代後期の作風を示し、威厳あるその表情にはやや古風な表現も見られ、造像時期は11世紀まで遡るとみられます。
 薬師寺に伝わる貞享5年(1688)に記された「紀州那賀郡杉原村竜門山薬師寺縁起」(『粉河町史』所収)には、天長3年(826)の秋、国内に疫病が流行した際、弘法大師が像高一尺七寸の薬師如来像を造って7日間祈願したたところ、病人は癒え、死者も蘇る奇瑞が起こった。その霊験を聞いて人々が多数お参りにやってきたので、この仏像を本尊として薬師寺を建てた、と語られます。もちろん薬師如来坐像の造像時期は弘法大師(空海)の在世時までは遡りませんが、繰り返し流行する疫病による病や死への恐怖から人々を救うため、高僧に仮託して、本尊の霊験を語るこの縁起が形成されたのでしょう。

 疫病平癒の霊験仏の紹介を通じて、疫病と向き合い続けてきた私たちの苦難と克服の歴史に思いを馳せるとともに、今般の感染症流行の早期収束を心から願いたいと思います。(主任学芸員 大河内智之)

薬師如来坐像 薬師寺蔵 - コピー (2) DSC_7805 - コピー DSC_7807 - コピー
薬師如来坐像 平安時代(11世紀) 薬師寺蔵  ※画像クリックで拡大します。
薬師寺縁起 - コピー (2)
「紀州那賀郡杉原村竜門山薬師寺縁起」(『粉河町史』第5巻所収) ※画像クリックで拡大します。

掃部太郎畠地売券(館蔵品622 紀州本・川中島合戦図屏風 下貼文書のうち)

掃部太郎畠地売券(館蔵品622 紀州本・川中島合戦図屏風 下貼文書のうち)

和歌山県立博物館が所蔵する資料として、紀州本・川中島合戦図屏風があります。
この屏風では、武田信玄と上杉謙信とが一騎打ちする場面を描くものとして
よく知られており、図版などでもしばしば取り上げられています。

川中島一騎打ち

実は、この紀州本・川中島合戦図屏風を修理した際に、
大量の下貼文書が見つかりました。そのなかに、一点のみですが中世文書が見つかっています。

紀州本・川中島合戦図屏風の下貼文書についてはこちら↓を参照ください。
スポット展示 紀州本・川中島合戦図屏風のウラ


掃部太郎下地売券

【釈文】
永代売渡下地事
 合畠三段地之内半下地者〈梶取茶屋前/東西ハ地類/南道限、北畔限〉
右下地者、直銭伍貫参百文売渡事実正也、
公事銭五十文、此外号諸公事旨、天下一同
徳政行候共、不可有違乱、証文如件、
  天文廿年五月吉日  売主掃部太郎(花押)
左教大夫殿渡申候 口入レンケ谷重徳院(略押) 与三大夫(略押) 庄官大夫(略押)
             ノサキ助郎大夫(略押)

天文20年(1551)掃部太郎が畠三段を5貫300文で左教(左京ヵ)大夫に売り渡した証文です。
梶取茶屋前とあり、和歌山市梶取に茶屋があったことがわかります。
また、口入(仲介)として「レンケ谷」(蓮花谷)重徳院が関わっていることが注目されます。
蓮花谷という谷名から判断すると、根来寺僧の可能性が考えられます。

坂本亮太「地域のなかの根来寺」
(『連続講座報告集 今、明らかになる 泉州・紀北の戦国時代』泉佐野の歴史と今を知る会、2018年)
で取り上げて、紹介しました。

(当館学芸員 坂本亮太)

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