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粉河寺展コラム「童男行者と粉河寺」

粉河寺展コラム
「童男行者と粉河寺」

 平安時代末期に描かれた国宝・粉河寺縁起は、粉河観音の造像と寺院の創建にまつわる縁起と、霊験あらたかな粉河観音が長者娘の病を治した縁起の、二つの物語から構成されています。その前半と後半の二つの物語に共通して登場する人物がいます。
 童行者(わらわぎょうじゃ)、あるいは童男(どうなん)行者とよばれ、子どもでありながら、行者、すなわち修行僧の姿に表された不思議な存在です。頭髪は長く伸ばし、白い浄衣と袈裟をまとい、足下には脚絆(きゃはん)をつけた出で立ちです。
 童男行者は、実は粉河観音の化身です。前半の物語では猟師の願いに応じて千手観音像を刻み、後半では、病の娘を千手陀羅尼というお経の威力で救い、お礼に持ち帰った紅の袴と提鞘を千手観音像が持っていたと語られ、化身であることを明示します。粉河寺の本尊が人々の前に姿を表して直接救済してくれる生身(しょうじん)の観音であることを示す象徴的存在といえるのです。
 法華経の観世音菩薩普門品には、観音は相手の状況にあわせて三十三の姿に変えて現れると説かれています。その中に、童男身や童女身というものがあります。童男行者もこうした経説を元にしていますが、その行者としての姿には、都まで名の知れ渡った、山中で厳しい修業を行う粉河聖の姿がそこに投影されているのでしょう。
 粉河寺の縁起が生き生きと輝くためのシンボルとしての役割を千年以上にわたって果たし続けている童男行者は、粉河寺山内、御池坊(みいけぼう)の秘仏本尊として童男堂にまつられています。秘仏は毎年12月18日に開帳され、人々の前に生身の観音が姿をあらわすのです。
粉河寺縁起に描かれた童男行者
国宝・粉河寺縁起に描かれた童男行者の姿

粉河寺展コラム 「粉河観音の鞘付帯と紅袴」

粉河寺展コラム
「粉河観音の鞘付帯と紅袴」

 粉河寺の千手観音は、童子に姿を変えて現れ願いをかなえてくれる「生身(しょうじん)」の観音として信仰されました。その霊験あらたかな観音の由緒を記した粉河寺縁起に、粉河観音独特のある特徴的な姿が語られています。河内国の佐大夫の子が重い病気にかかり、童行者がやってきて千手陀羅尼を唱えるとたちまち平癒した。お礼の品を断り、ただ鞘を付けた帯だけを取り粉河に去ってしまった。佐大夫が尋ねて行くと、庵の中にまつられた千手観音像の施無畏手(右側一番下の手)にあの鞘付帯を持っていた、というのです。
 粉河寺の縁起は、鎌倉時代になって増補され、33話の霊験譚からなる粉河寺観音霊験記が編纂されました。その中にも粉河観音の姿に関わる物語があります。平安時代の初め、在原業平が天皇への捧げ物を用意できずに困っていたところ、粉河寺の童がこの世の物とは思えない妙味の菓子を持参し、助けられた。妻の北の方がお礼に紅の袴を渡したが受け取らないので、肩に掛けた。のちに夫婦で粉河寺に行き観音像を拝見したところ、紅袴が肩に掛かっていた、というものです。
 この鞘付帯と紅袴を持った観音の図像が二つあります。一つは国宝・粉河寺縁起、もう一つは粉河寺に伝わる千手観音二十八部衆像。しかしその図像は大きく異なります。右手施無畏手に鞘付帯、肩に紅袴という粉河寺の縁起内容に正確なのは後者の方なのです。縁起は信仰の核となる大切なもの。国宝絵巻の制作にあたっては、寺家方は関与していないと見られます。粉河寺縁起研究の新たな着眼点は、観音の姿そのものにあったのです。

国宝粉河寺縁起の粉河観音
国宝粉河寺縁起の粉河観音図像

千手観音二十八部衆像の粉河観音
右:千手観音二十八部衆像の粉河観音図像

粉河寺展コラム 「霊験あらたかな粉河観音」

粉河寺展コラム
「霊験あらたかな粉河観音」

 西国三十三所第三番札所の粉河寺は千手観音を本尊とします。千手観音は11の顔、千本の手、そして手のひらに千の眼を有して、あらゆる世界の苦しむ人々を救済すると『千手陀羅尼経』に記されます。千の手は、実際には四十二手で表すのが一般的ですが、その多数の手は人々に確かに救済が及ぶことを実感させるものです。
 11世紀初めごろ、清少納言が記した『枕草子』に「寺は、壺坂。笠置。法輪。(中略)石山。粉河。志賀。」とあり、粉河寺は名だたる観音霊場と並んでその名が知られていました。その背景には、粉河観音の霊験を語る粉河寺縁起の存在がありました。
 粉河寺縁起では、観音の化身である童行者(わらわぎょうじゃ)が、猟師の求めに応じて観音像を作り寺の始まりとしたこと、そして重い病にかかった左大夫の子を千手陀羅尼の功徳で癒やしたことが語られ、粉河観音が「生身(しょうじん)」、すなわち眼前に姿を表す救済者であることを語ります。平安時代末にはこの縁起を元に、人名や地名、筋書きを改変した縁起絵巻が後白河法皇の周辺で制作されています。
 霊験あらたかな粉河寺の本尊像は絶対の秘仏で、前立ちもまた秘仏なので、参詣者がまみえるのは本堂背面に北面して立つ千手観音像です。近年の修理の際、江戸時代の本堂火災の後に、平安時代後期の優美な観音像を千手観音に改変して作られたと分かりました。しかし疑問が一つあります。本来粉河観音は左肩に赤い布を掛けるのが約束事なのですが(在原業平妻が童行者に紅袴を布施した伝承による)、この像には見られません。あるいは、かつては本物の布を肩に掛けていたのかも知れません。

千手観音立像 粉河寺蔵
千手観音立像 粉河寺藏 平安時代後期

粉河寺展コラム「粉河の聖を舳に立てて、乗せて渡さん極楽へ」

粉河寺展コラム
「粉河の聖を舳に立てて、乗せて渡さん極楽へ」

 平安時代末期、後白河法皇(1127~92)が今様という歌謡を集約した『梁塵秘抄』の中に、「大峰聖を舟に乗せ、粉河の聖を舳に立てて、正きう(書写)聖に梶とらせてや、乗せて渡さん、常住仏性や、極楽へ」という一曲があります。大意は、大峰・粉河・書写の行者(聖)が、人々を阿弥陀如来の住む極楽浄土へ導いてくれる、という内容です。ここに見えるのは、山中で修行する修験の要素と、極楽往生を願う念仏の要素が、溶け合うように重なる様子です。そうした聖の拠点として、紀の川市の粉河寺は都にまで知れ渡っていたのです。
 本尊の千手観音への信仰だけでなく、修験や念仏の信仰の拠点でもあった粉河寺の重層的な信仰のあり方を示してくれる仏像が、かつての寺領内にあります。
 粉河寺から北方に直線距離で2㎞ほど、葛城山系の中腹に、中津川行者堂(極楽寺)があります。今年6月に日本遺産となった「葛城修験」を構成する重要拠点です。役行者像を本尊とするこの行者堂には、平安時代後期に造像された阿弥陀三尊像が伝わって来ました。中尊の像高83.3㎝、両脇の菩薩像は正座した姿で、阿弥陀如来が往生者を極楽へと迎えに来た姿を表しています。修験の拠点である中津川が、かつて粉河寺の念仏聖の拠点でもあったことをこの三尊像が伝えています。都にまで轟いた粉河聖の実像に唯一接っすることができる貴重な仏像といえるでしょう。
 しかし残念なことに、和歌山県指定文化財にも指定されたこの三尊像は、1990(平成2)年に盗難被害に遭い、いまだにその行方をつかめていません。なんとしても取り戻し、中津川、そして粉河寺の歴史を未来へと伝えていかねばなりません。
三尊像(中津川行者堂)s
阿弥陀如来坐像及び両脇侍像 3軀 平安時代 中津川行者堂(極楽寺)藏 和歌山県指定文化財

特別展「国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史」図録のお知らせ

創建1250年記念特別展「国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史」では、全ての展示資料を掲載した図録を用意しています。

粉河寺展図録

全288ページ(カラー206ページ、モノクロ82ページ)で、特に多数出陳している絵巻は、すべてその巻頭から巻末までの図版を掲載しています。1冊2000円で、博物館ミュージアムショップで販売しているほか、郵送販売も行っています。
詳しくは、博物館ホームページの「図録の郵送購入」をご参照下さい。
https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/syuppan.htm

図録の内容は次のとおりとなっております。

ごあいさつ
目次・凡例
概説「粉河寺縁起と粉河寺の歴史」大河内智之(当館主任学芸員)
第一章 観音霊場粉河寺―観音験を見する寺―
 ①縁起の形成と霊場化
 ②粉河観音のすがた―霊験像は縁起をまとう―
  コラム①「二十八部衆の図像」伊東史朗(当館館長)
  コラム②「童男行者像―粉河寺観音像の化身―」山本 陽子(明星大学教授)
 ③院政期の粉河寺―信仰の重なり―
二章 粉河寺縁起の全貌―描かれる奇瑞と霊験―
 ①国宝 粉河寺縁起―生身千手観音の奇瑞―
  コラム③「「方丈なる庵室」と陀羅尼の霊験」山本聡美(早稲田大学文学学術院教授)
 ②粉河寺観音霊験記―粉河寺の歴史と霊験―
 ③粉河寺御池海岸院本尊縁起―童男行者像の物語―
  コラム④「粉河寺縁起の中世的再編―『粉河寺御池海岸院本尊縁起』と和泉山脈山麓地域の宗教文化―」大橋直義(和歌山大学准教授)
三章 粉河寺領の宗教空間
 ①粉河寺と葛城修験
 ②粉河寺と誓度院の禅律僧
 ③粉河寺領の寺社と文化財
 ④粉河祭―粉河寺六月会と寺領の村々―
四章 粉河寺の復興と粉河寺縁起―融合する縁起と歴史―
論考「「粉河観音縁起絵巻」七巻本の成立圏―足利将軍家の絵巻コレクションと南北朝合一前後の紀伊国をめぐって―」髙岸輝(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)
論考「中世粉河寺領の様相」坂本亮太(当館主査学芸員)
資料解説
史料編
主な参考文献
展示資料目録
協力機関・協力者一覧

スポット展示「粉河鋳物師の獅子」(10月28日~11月23日)

スポット展示
粉河鋳物師の獅子 (こかわいもじ の しし)
会期:令和2年(2020) 10月18日(日)~11月23日(月・祝)
会場:和歌山県立博物館 2階学習室スポット展示コーナー

 ただいま開催中の創建1250年記念特別展「国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史」に合わせまして、江戸時代に粉河寺の門前で工房を構えて活発に活動を行っていた粉河鋳物師の作品を紹介します。
 粉河鋳物師には、蜂屋、木村、福井などの家があり、法具類から仏像、梵鐘まで、大型の鋳造品を含む仏具の製造、販売を中心に行っていました。紀の川流域や高野山周辺の寺社を調査すると、近世の仏具類の多くに、粉河鋳物師の名を含む銘がみられるほか、江戸で活動する一派も確認されています。
 蜂屋は寛永8年(1631)に藩主・徳川頼宣に御(お)目(め)見(みえ)を許され、代々「蜂屋正勝(はちやまさかつ)」を名乗るよう命じられました。粉河寺境内では、蜂屋正勝が寛延4年(1751)に制作した本堂高欄擬宝珠(ぎぼし)や、安永4年(1775)に制作した盥漱盤(かんそうばん)など、多数の鋳造品が伝来しています。今回の展示資料である巌頭獅子置物(がんとうししおきもの)は、その高い技術水準を遺憾なく発揮した優作です。(主任学芸員 大河内智之)

巌頭獅子置物
粉河作巌頭獅子置物 蜂屋正勝作 江戸時代 和歌山県立博物館蔵 
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粉河寺本堂擬宝珠
参考1 本堂高欄擬宝珠 蜂屋正勝作 江戸時代 寛延4年(1751) 粉河寺蔵
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粉河寺かんそうばん
参考2 粉河寺盥漱盤 蜂屋正勝作 江戸時代 安永4年(1775) 粉河寺蔵
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夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料の紹介(5)

引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。

Ⅴ 梧陵に学ぶ ー「災害の記憶」の継承ー

 平成二七年(二〇一五)一二月に日本が主導して国連総会本会議で「世界津波の日」(一一月二日)が採択され、翌年から「世界津波の高校生サミット」が開催されています。同二八年は高知県、同二九年は沖縄県、同三〇年は和歌山県で開催され、和歌山県においても高校生が日本の津波の歴史や防災・減災の取組を学ぼうとする機運が高まっている状況にあります。
 当館では、県立文書館、文化遺産課、歴史資料保全ネット・わかやまの協力を得て、平成二六年度から国庫補助金を活用して、「災害の記憶」の発掘・共有・継承事業をおこなっています。今年三月、『「災害の記憶」を未来に伝えるー和歌山県の高校生の皆さんへー』を発行しました。和歌山県立博物館または和歌山県立文書館では無料配布しています。ここでは、掲載した資料の一部を紹介します。文末に記した〔冊子番号○〕は『「災害の記憶」を未来に伝える』の掲載した番号です。
46QRコード(画像はクリックで拡大します)

和歌山城下町での安政地震の被害を記す
46万代日並記(岡本家文書) (画像はクリックで拡大します)
46 万代日並記(岡本家文書) 一冊 嘉永七年(一八五四) 個人 和歌山県指定文化財
 福田村(紀美野町)の庄屋を務めていた岡本家には、天明六年(一七八六)から文久三年(一八六三)までの七七年間、親・子・孫の三代にわたって書き継がれた日記が残っています。岡本家は地震の被害を受けなかったようで、後日、見舞いのため和歌山城下を訪れています。嘉永七年一一月八日条には、和歌山は地震で大きく破損し、浜の方は津波で多くの人が出たようだと記されています。〔冊子番号2〕

一九五三年の集中豪雨の被害状況を記した地図
47花園村災害調査図_全体(全体) 47花園村災害調査図_拡大(部分拡大)
(画像はクリックで拡大します)
47 花園村災害調査図 一舗 昭和二八年(一九五三) 和歌山県立文書館
 昭和二八年七月一八日の集中豪雨によって、花園村(かつらぎ町の一部)では土砂崩れ(ピンク色)が発生しました。この時、崩れた土砂が谷を埋め、天然ダムが形成されました。さらに九月二五日に台風が襲来して、大雨となったことから天然ダムが決壊し、再び有田川は氾濫しました。この図は、被災直後に地元に住む坪井初太郎氏が実地調査をおこなって制作したものです。災害の大きさを生々しく伝えています。〔冊子番号3〕

宝永地震津波の比井浦での被害を書き記す
48古今年代記(画像はクリックで拡大します)
48 古今年代記 一冊 江戸時代(一八~一九世紀) 和歌山県立博物館
 比井浦(日高町)で廻船業を営んだ村上家の当主が、比井浦の歴史を記したものです。宝永四年(一七〇七)の大地震津波について、「比井浦の津波被害は若一王子神社の段橋三段目まで、長覚寺の屋敷門口まで到達し、四郎右衛門家は屋敷から土蔵にいたるまで流された」と記されています。〔冊子番号7〕

安政地震津波の横浜村での被害を書き記す
49津波之由来記録下書DSC_1956(画像はクリックで拡大します)
49 津浪之由来下書 一冊 嘉永七年(一八五四) 和歌山県立文書館
 横浜村(由良町)に住む毛綿屋平兵衛が被災直後に記した記録です。横浜村の低い所で約四・五m、宇佐八幡神社付近では本殿前石段の六段目まで、山のような津波が押し寄せました。津波は由良川をさかのぼって、現在の入路交差点付近から里集会所あたりまで到達しました。〔冊子番号9〕

宝永地震に伴う津波への防災対策の痕跡
50日高川河口絵図(画像はクリックで拡大します)
50 日高川河口絵図 一舗 天保三年(一八三二) 個人
 日高川河口の名屋浦(御坊市)周辺の絵図です。右端を北から南に流れているのが日高川、左端を北から南に流れているのが西川です。日高川右岸の五軒屋松と呼ばれた場所から西川左岸にかけて、「波除堤」と呼ばれる防波堤が描かれています。この「波除堤」は、宝永四年(一七〇七)の大地震津波から六年後に完成しました。現在、堤は跡形もなくなっていますが、江戸時代の防災対策を知るうえで貴重な絵図といえます。〔冊子番号10〕

宝永地震津波の印南浦における浸水域を示す
51高波溺死霊魂之墓(写真)(高浪溺死霊魂之墓)
51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-1(正面) 51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-2(左側面)
51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-3(背面) 51拓本「高波溺死霊魂之墓」碑-4(右面)(画像はクリックで拡大します)
51 拓本 高浪溺死霊魂之墓 四枚 現代 和歌山県立博物館
 印定寺(印南町)の境内に、宝永四年(一七〇七)の大地震津波で亡くなった人を供養するため、享保四年(一七一九)に建立された「高浪溺死霊魂之墓」があります。背面に、津波が札之辻では約一八〇㎝、印定寺山門の門柱では約六〇㎝、山口村との村境まで来たと記されています。墓碑は、今年、印南町指定文化財に指定されました。〔冊子番号11〕

安政地震津波に襲われた際の避難場所を示す
52為後カガミ碑(写真)(為後鍳)
52拓本 「為後カガミ」碑-2(正面) 52拓本 「為後カガミ」碑-1(背面)(画像はクリックで拡大します)
52 拓本 為後鍳 二枚 現代 和歌山県立博物館
 嘉永七年(一八五四)の大地震津波の二年後に、避難場所の大日山(すさみ町)に建てられました。山上では大日講が行われました。準備で山に登る時、区長が先頭で小太鼓を鳴らし、後に続く人たちは掛け声をだしながら登りました。これは、夜間の津波来襲を想定した避難訓練でもありました。石碑は、今年、すさみ町指定文化財に指定されました。〔冊子番号14〕

昭和東南海地震津波に襲われた惨状を伝える
53天満の大津波記念碑(写真)(天満の大津浪記念碑) 53拓本 天満の大津波記念碑(画像はクリックで拡大します)
53 拓本 天満の大津浪記念碑 四枚 現代 和歌山県立博物館
 昭和一九年(一九四四)の昭和東南海地震津波の襲来から六年後である昭和二五年三月に、天満天神社の敷地内に大津浪記念碑が建てられました。津波襲来当時の那智国民学校校長であった東玉次氏が、自分がみた地獄の光景を後世に伝えようと文面を作りました。字は青岸渡寺住職の中森亮順氏が担当しました。石碑は、那智勝浦町指定文化財に指定されています。〔冊子番号19〕

流木の再利用で、安政地震の記憶を伝える
54南珠寺DSC_1958(画像はクリックで拡大します)
54 南珠寺旧山門部材 一点 安政五年(一八五八)ヵ 南珠寺
 嘉永七年(一八五四)の大地震津波で被害を受けた南珠寺(新宮市)の山門が、四年後に再建されました。この部材は、再建された山門の門扉に使われていたとみられる部材(中桟)で、その一面に一一月四日の東海地震や五日の南海地震の様子が記されています。寺の言い伝えでは、津波で流されてきたケヤキの木を用いたとされています。〔冊子番号21〕

宝永地震で破損した新宮城石垣の修復願い
55新宮城絵図(画像はクリックで拡大します)
55 紀州新宮城絵図 一舗 宝永五年(一七〇八) 和歌山県立博物館
 宝永四年の大地震で大破した新宮城の修復願いを、江戸幕府に提出するために作成された図面です。各郭の石垣が正確に描かれ、被害を受けた大手道を登り、水ノ手から松ノ丸への道、登坂越の道が赤く彩られています。また、二ノ丸の北東側にある大手道の石垣をみると、破損部分が朱線で囲まれています。〔冊子番号22〕

(主任学芸員 前田正明)

→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト

夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料の紹介(4)

引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。

Ⅳ 幕末・維新期における梧陵と海荘

 梧陵は江戸との往復を通じて、知見を広めるとともに多くの知識人たちとの交流を深めました。佐久間象山や三宅艮斎から西洋事情を学び、勝海舟や関寛斎へ資金支援をおこなっています。一方、広村では地震津波の被災者救済や広村堤防の築造など社会事業もおこなっています。こうした梧陵の活動は、本業の醤油業経営の拡大を弱める要因にもなりました。
 梧陵は、広村村民のための教育機関である耐久社を開設します。さらに、紀伊藩の藩政改革に関与し、誕生した和歌山県の要職にもつきました。ここでは、幕末・維新期における梧陵の動向を、菊地海荘(一七九九~一八八一)との関係にも注目しながら、みていきいます。

銚子にいた梧陵が広村の叔父に出した年賀状
30濱口梧陵書状 籠谷叔父宛DSC_0237 (画像はクリックで拡大します)
30 濱口梧陵書状 籠谷叔父宛 一通 天保三~五年(一八三二~三四) 湯浅町教育委員会
 梧陵は、文政三年(一八二〇)広村にある濱口家の分家に生まれました。一二歳で儀兵衛家の養子になり、家業の醤油醸造業を継ぐため、銚子に向かいました。銚子では「広屋」(広村出身という意味)の屋号をもち、同五年九月に元服して「儀太郎」を名乗るまで、「儀太」を名乗っていました。この書状は、銚子にいた広屋儀太(梧陵)が、広村に住む籠谷叔父(実母しんの弟)にあてた年始の挨拶状です。この時、儀太は一三~一五歳でした。

耐久社の入り口に掲げられた名称板
31扁額「耐久社」D3A_0004 (画像はクリックで拡大します)
31 扁額「耐久社」 一面 慶応二年(一八六六) 広川町
 嘉永五年(一八五二)、梧陵は濱口東江・岩崎明岳らと、広村の田町に稽古場を開設しました。当初は村民やその子弟の武道鍛錬を目的としていましたが、やがて学問も重視するようになります。嘉永七年(一八五四)の大津波で被災し、一時閉鎖されましたが、安政二年(一八五五)再開し、慶応二年に安楽寺の東隣に移転しました。その際、永続を誓って、「耐久社」と命名しました。この額は、菊池海荘が揮毫し、安楽寺住職の濱口松塘が板に刻みました。

ペリー率いる黒船が浦賀に現れた様子を描く
32軍図(ペリー来航・親書請取場所之図)D3A_03510 (画像はクリックで拡大します)
32 ペリー来航図写 一幅 嘉永六年(一八五三)以降 和歌山市立博物館
 嘉永六年六月三日ペリー率いる艦船(黒船)四隻が、浦賀沖(神奈川県横須賀市)に現れ、江戸幕府は四藩に防備を命じました。ペリーは約四百人の兵士を率いて、九日久里浜に上陸し、アメリカ大統領の親書を浦賀奉行に手渡しました。その様子が描かれています。一方、四月二〇日養父の保平が亡くなったため広村に戻っていた梧陵は、銚子に戻る途中に滞在していた江戸でこの事件を知り、外国の脅威を実感することになります。

ロシア船ディアナ号への紀伊藩の対応を記す
33異船記D3A_0014(巻七) 33異船記D3A_0126(巻八)  (画像はクリックで拡大します)
33 異船記 七・八 二冊 安政三年(一八五六) 和歌山県立図書館
 嘉永七年(一八五四)九月一五日日高沖にロシア船ディアナ号が出現し、紀伊水道を北上して、一八日大坂に到着しました。一〇月二日大坂を出発し、四日加太沖に停泊し、その後下田(静岡県下田市)に向かいました。この間、紀伊藩では領内の海岸防備を村役人や地士に命じ、濱口儀兵衛(梧陵)も固場に詰めています(巻七)。お抱え絵師の野際蔡真は、沿岸各所に設けられた砲台、ディアナ号とバッテイラ(短艇)二艘などを描いています(巻八)。

いろは順に並べた紀伊藩士の名簿
34和歌山御家中御目見以上以下伊呂波寄惣姓名帳D3A_0024 (画像はクリックで拡大します) 
34 和歌山御家中御目見以上以下伊呂波寄惣姓名帳 一冊 明治二三年(一八九〇) 和歌山県立文書館
 明治元年一一月、藩主徳川茂承の命で、改革派の津田出が藩政改革を開始します。その直後、梧陵は勘定奉行に抜擢され、翌二年一月に藩の要職である参政に命じられます。この資料には、明治二年ごろの禄高(藩からの給与)が記されており、濱口儀兵衛(梧陵)は切米四五石となっています。二月には学習館知局事兼務を命じられ、藩士の子弟教育機関である学習館の改革に取り組むことになります。

梧陵が鎧の背に指した小旗
35背旗 D3A_0009 (画像はクリックで拡大します)
35 背旗「有田郡 濱口儀兵衛」 一旒 江戸時代(一九世紀) 稲むらの火の館
 この背旗(鎧の背に指した小旗)は、下地に朱を塗った紙に、金箔を貼った「金の丸」を縫い付け、「有田郡 濱口儀兵衛」の黒い文字を貼り付けています。藩の規定では、背旗の使用は慶応三年(一八六七)正月まで、諸士御目見以上(一般の家臣)は紺地に金の丸を使い、名前は金箔ですり込むこととされています。安政三年(一八五六)梧陵は救済事業の功労で独礼格を与えられたとされており、この背旗はそれ以降に使用されていた可能性があります。

栖原村出身の菊池海荘の肖像画
36菊池海荘像D3A_0378 (画像はクリックで拡大します)
36 菊地海荘像 一幅 江戸時代(一九世紀) 和歌山市立博物館
 菊池海荘(一七九九~一八八一)の肖像画です。羽織袴姿で羽織の房は花結びにし、右手に扇子を持ち、右脇に刀を置いています。海荘は江戸に出店をもつ砂糖問屋の二代目当主で、幼くして儒学を学び、前半生は漢詩人として活躍し、後半は海防論者として有田地方で活躍しました。外敵から農民の生活を守るために、農兵を組織する必要を説きました。文久三年(一八六三)に勝海舟が海防警備のため紀州を訪れた時、梧陵とともに面会しています。

幕末の湯浅村や広村を描いたスケッチ画
37 世情手控え図 四枚 江戸~明治時代(一九世紀) 個人
 すき返したような薄墨紙に、湯浅村・広村周辺の幕末の世情が描かれています。①は大だこを担ぎ、万祝(大漁祝い)を着た人物が二人立っています。地震の前日や当日に魚類やタコに異常な行動が見られるともいわれています。②・③は安政三年(一八五六)に建立された深専寺「大地震津波心得の碑」の制作風景です。④は海側から広村を望み、松が茂る広村堤防(安政五年完成)が描かれています。「孫」の署名から、筆者は菊地海荘ともいわれています。

深専寺周辺の様子を描いた図
38紀伊国名所図会後編 巻之四D3A_0024 38紀伊国名所図会後編 巻之四D3A_0080(深専寺) 38紀伊国名所図会後編 巻之四D3A_0081(「大地震津波心得の記」碑)
(画像はクリックで拡大します)
38 紀伊国名所図会 後編巻之四 一冊 嘉永四年(一八五一) 和歌山県立博物館
 紀伊国の寺社・名所・旧跡の由来などを記した紀伊国名所図会の一場面です。多くの人びとが行き交う大通りは江戸時代の熊野街道で、深専寺の門前(総門)に向かう辻には、天保九年(一八三八)五月に建てられた道標がみえます。北面に「すぐ熊野道」、南面に「右いせかうや道」、東面に「きみゐてら」と刻まれています。総門の左側に「大地震津波心得の記」碑が建立されるのは、嘉永七年の大津波から二年後の安政三年(一八五六)一一月のことです。

有田郡民政副知局事の菊池海荘が記した記録
39民政局用事留 一・二D3A_0014② 39民政局用事留 一・二D3A_0013
39民政局用事留 一・二D3A_0016④ 39民政局用事留 一・二D3A_0015③ (一)
39民政局用事留 一・二D3A_0103⑥ 39民政局用事留 一・二D3A_0102
39民政局用事留 一・二D3A_0105⑧ 39民政局用事留 一・二D3A_0104
39民政局用事留 一・二D3A_0106⑨                    (二)  (画像はクリックで拡大します)
39 民政局用事留 一・二 二冊 明治二年(一八六九) 湯浅町
 明治二年二月、有田郡民政副知局事を命じられた菊地海荘(一七九九~一八八一)が書き留めた記録です。一(①~④)には、梧陵に宛てた手紙が写され、鈴木知局事が判事試補の恣意的な人事をしていると指摘しています(梧陵は八月に知局事になります)。二(⑤~⑨)には、学習館知事の梧陵が五月に定めた学習館学則が記されています。梧陵は、学習館・国学所・蘭学所などを整理統合するとともに、洋学所を設け、門閥を廃して入学の基準を大幅に緩和するなどの改革を行いました。

広村出身の渋谷伝八が書いた広村の歴史
40夏之夜がたり 渋谷伝八筆録 D3A_0003 40夏の夜かたりD3A_0026(広村堤防) (画像はクリックで拡大します)
40 夏之夜がたり 一冊 明治四二年(一九〇九) 稲むらの火の館
 広村出身の実業家であった渋谷伝八(一八四一ヵ~一九一〇)が書き記しました。伝八の父吉兵衛が梧陵と懇意であったこともあり、梧陵の事績も記されています。例えば、嘉永七年(一八五四)の大地震津波後に着工された広村堤防のこと、広村と湯浅村との境を流れる広川に架かる広橋の架け替え工事を梧陵が自費でおこなったことなどです。また、明治二年に有田郡民政知局事に命じられた梧陵が、有田地域の産業振興に尽力したことも記されています。

蘭・菊・梅・竹の四つの植物を染付で描いた鉢
41 染付四君子図菓子鉢DSC_9236 (画像はクリックで拡大します)
41 染付四君子図菓子 一口 明治二~三年(一八六九~七〇) 和歌山県立博物館
 蘭・菊・梅・竹は、春夏秋冬の季節を代表する草木として、「四君子」として称えられました。筆の運びが滑らかですばやく、腕の立つ絵付師によるものとみられます。底裏にある「南紀製之」の銘は、男山陶器場が藩の開物局の傘下に入った明治二年から三年まで使用されたもので、この時期京都から陶工を雇って陶器の生産をおこなっていました。明治三年一月二四日、湯浅の有田郡民政局で執務していた梧陵は、男山の陶器場を訪れています。

岩場を駆け上がる獅子を染付で描いた香炉
42染付獅子図香炉 光川亭仙馬作DSC_9225 (画像はクリックで拡大します)
42 染付獅子図香炉 光川亭仙馬作 一口 明治四年(一八七一) 和歌山県立博物館
 底に三つの脚が付いています。側面にある「仙馬」の染付銘から、光川(印南町)出身の光川亭仙馬(土屋政吉、一八一六~九三)の作とわかります。明治三年八月開物局の廃止により、男山陶器場の経営は崎山利兵衛の手にもどりました。翌年二月小山陶器所(三重県紀北町)に移っていた仙馬も男山に戻っています。側面などの文字情報から、この香炉は、正月二一日に二一歳で亡くなった息子安之祐の冥福を祈って、仙馬が制作したものとわかります。

一八九九年ごろの広八幡神社の境内を描く
43和歌山県名所図録D3A_0004 43和歌山県名所図録D3A_0024 小(紀伊国名所図会) (画像はクリックで拡大します)
43 和歌山県名所図録 一冊 明治三二年(一八九九) 興山寺
 和歌山県にある名所とされる景観(明治時代)を描き、解説文をつけています。収録されている名所は全部で一一一か所あり、ほとんどが社寺です。展示の場面は、広八幡神社の境内です。江戸時代は七か村の産土神で、江戸時代の景観は、紀伊国名所図会に描かれています。このなかで、多宝塔・鐘楼・西門・神楽所・観音堂などは、明治の神仏分離で取り払われました。一方、明治二六年に建立された濱口梧陵翁碑(梧陵濱口君碑)が見えます。

勝海舟が梧陵の成し遂げた業績を記す
44拓本 梧陵濱口君碑DSC_1943 44拓本 梧陵濱口君碑D3A_0087(濱口梧陵銅像) (画像はクリックで拡大します)
44 拓本 梧陵濱口君碑 一枚 現代 個人
 梧陵が亡くなってから八年後の明治二六年(一八九三)四月に、広村堤防が望める広八幡神社の境内の一角に、梧陵濱口君碑が建てられました。これは、その拓本(凹凸のある面に紙を被せて密着させ、上からタンポに含ませた墨を打ったもの)です。梧陵の孫である勤太(梧圃・九代儀兵衛)が、梧陵と親交の深かった勝海舟に依頼し、文面が作成されました。書は貴族院議員で、「明治の三筆」と呼ばれた書家の巌谷一六、刻字は宮亀年が担当しました。

梧陵生誕百年を記念して作成された伝記
45濱口梧陵伝 杉村広太郎筆DSC_1949 45濱口梧陵伝 杉村広太郎筆大正9年銅像 (画像はクリックで拡大します)
45 濱口梧陵伝 杉村広太郎著 一冊 大正九年(一九二〇) 和歌山県立図書館
 杉村広太郎(楚人冠、一八七二~一九四五)が、梧陵生誕百年にあたる大正九年、旧和歌山県会議事堂前に濱口梧陵銅像が建設されるに際して、濱口梧陵銅像建設委員会から依頼を受けて執筆したものです。杉村は現在の和歌山市に生まれ、上京して新聞記者となり、南方熊楠の活動なども紙面で取りあげていました。執筆にあたり、濱口家に残されていた梧陵関係の書翰の調査・解読、現地での聞き取り・写真撮影などは、北澤秀一がおこなっています。

(主任学芸員 前田正明)

→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト






















夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料の紹介(3)

引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。

Ⅲ 安政地震津波と梧陵・咏処

 嘉永七年(安政元年)一一月四日(西暦一八五四年一二月二三日)午前九時ごろ、東海地震が発生、三二時間後の五日(西暦一二月二四日)午後五時ごろ、南海地震が発生しました。湯浅村・広村では、五日の地震に伴う津波被害が大きかったようです。
 地震発生時、梧陵は広村に帰郷しており、梧陵が陣頭指揮を執って、被災した村民を救済し、広村堤防を築造しています。一方、梧陵と同じ銚子で醤油醸造業(ジガミザ醤油)を営んでいた古田咏処(一八三六~一九〇六)は銚子にいました。地震津波には関心があり、三年後に全国的な視野から「安政聞録」を著しています。さらに、翌年一一月五日に「津波の記憶」を後世に残すための行事が行われたことも記されています。

一八五四年に伊賀上野で起こった地震の被害状況
21 瓦版 大地震早引方角附072  (画像はクリックで拡大します)
21 瓦版 大地震早引方角附 一枚 嘉永七年(一八五四)刷 和歌山市立博物館
 嘉永七年六月一五日に起こった内陸直下型の伊賀上野地震(三重県伊賀市北部が震源地)を取り上げた瓦版です。瓦版とはおもに街頭でニュース性のある題材を読み上げながら売り歩いた印刷物で、庶民への伝達手段として、このころ普及しました。地震の被害は、東は現在の愛知県、西は現在の徳島県、北は現在の福井県、南は現在の和歌山県と広範囲に及びました。ただ、和歌山城下は少し揺れた程度で被害はなかったと記されています。

一八五四年に起こった東海・南海地震の被害状況
22 瓦版 紀州大地震 大津波の次第089  (画像はクリックで拡大します)
22 瓦版 紀州大地震 大津浪の次第 一枚 嘉永七年(一八五四)刷 和歌山市立博物館
 嘉永七年一一月四日の東海地震と五日の南海地震(いずれもM八・四と推定)、それに伴う津波で被害を受けた紀伊国の状況が記された瓦版です。和歌山城下は倒れた建物や死者の数、大津波が「湊浜」に押し寄せたことが記されています。このほか、黒江・日方・名方(いずれも海南市)、日高(御坊市周辺)、湯浅浦、田辺、熊野の被害状況のほか、七日から一〇日にかけて、湯浅浦の浜に数多くの死者が打ち上げられたことも記されています。

一八五五年に起こった江戸地震の被害状況
23瓦版 江戸本調大地震幷出火方角附DSC_1950  (画像はクリックで拡大します)
23 瓦版 江戸本調大地震幷出火方角附 一枚 安政二年(一八五五)刷 湯浅町教育委員会(山下破竹コレクション)
 安政二年一〇月二日、東京湾北部海底を震源とした大地震(M七と推定)が起こりました。この瓦版は、その被害状況(倒壊家屋約一万五千軒、死者約一万人)を伝えています。この時銚子にいた古田咏処は、安政聞録【24】のなかで、毎日のように揺れて、外へ飛び出したことは数知れないと記しています。梧陵は江戸や銚子の店が被害を受けたため、翌年春に後始末のため、江戸に向かっています。

安政地震を全国規模で調査した記録
24 安政聞録 古田咏処筆 一冊 安政四年(一八五七) 養源寺 広川町指定有形文化財
 古田家は銚子で醤油醸造業(ジガミザ醤油)を営んでおり、嘉永七年(一八五四)の大地震の際、庄三郎致恭(咏処、一八三六~一九〇六)は父と銚子にいました。翌年一〇月五日銚子を出発、一一月七日広村に帰った庄三郎は、帰る道中の見聞や広村の村人からの聞き取りをまとめました。庄三郎は絵心もあり、梧陵による村民救済のほか、被害状況を記した日本図、津波が広村を襲うなかで村人が広八幡神社に逃げる様子を描いた津波図も載せられています。

一四五前の宝永地震の被害状況をまとめる
25雨窓茶話IMG_8812  (画像はクリックで拡大します)
25 雨窓茶話写 一冊 江戸~明治時代(一九世紀) 和歌山県立図書館
 広村の古田豊林が、一四五年前の宝永大津波の記録を、嘉永五年(一八五二)に写したものです。豊林は、安政聞録【24】の著者(咏処)と同一人物といわれています。古田家(井関屋)は、広村問屋として波戸場の修復に関わっていたことから(御用留【10】)、豊林は宝永の大津波に関心を持ち、栗山氏宅にあった記録をまとめたとみられます。二年後に起こった大津波を安政聞録としてまとめた背景に、こうした事情があったのかもしれません。

古田咏処が描いた那智の滝
26山水画巻 古田咏処筆D3A_0072  (画像はクリックで拡大します)
26 山水画巻 古田咏処筆 一巻 明治五年(一八七二) 和歌山県立博物館
 古田庄右衛門咏処(庄三郎致恭、一八三六~一九〇六)は、垣内己山の三男として、栖原村(湯浅町)に生まれました。咏処は詩文書画を嗜んだといわれ、父己山も関わっていた古碧吟社に集う文人との交流があったためと考えられます。のち広村の古田家(井関屋)を嗣いでいます。古田家は銚子で醤油醸造業を営んでいました。ここには、蘭や風景を描いた絵が収録され、そのなかに「那智瀑布之図」(那智滝を描いた絵)も含まれています。

安政地震に伴う大津波を描いた二枚の絵
27嘉永七年高海之図(A本) D3A_0073(A本)27嘉永七年高海之図(B本) D3A_0096(B本)(画像はクリックで拡大します)
27 嘉永七年高海之図 二幅 嘉永七年(一八五四)以降 円光寺
 大津波が広村を襲う様子を描いた二つの絵(A本・B本)です。全体の構図(右上に広八幡神社、田に稲むらの火、海沿いに密集する集落)は似ていますが、細かい部分は異なります。A本は広村を襲い、江上川を遡上しながら荒れ狂う描写で、津波の恐ろしさが伝わってきます。一方、B本は津波来襲の切迫感は薄れ、文字情報(道名・寺名など)や神社に逃げる人々や浸水域を示し、津波来襲時に取るべき行動を示唆する教訓的要素が感じられます。

津波の被害や梧陵の事績を忘れないための取組
28宮割常式記事D3A_0111② 28宮割常式記事D3A_0110
28宮割常式記事D3A_0113④ 28宮割常式記事D3A_0112
28宮割常式記事D3A_0115⑥ 28宮割常式記事D3A_0114⑤ (画像はクリックで拡大します)
28 宮割常式記事 一冊 文化六年~安政二年(一八〇九~五五) 広八幡神社
 広八幡神社で毎年かかった経費を記した帳面で、予定外の経費も記されています。嘉永七年(一八五四)一一月の大地震津波では、神社の玉垣や屋根が破損し、修理したこと(①・②)。さらに、大地震津波による広村の詳細な被害状況、梧陵が被災者の救援・広村復興へ陣頭指揮を執ったことなどを忘れないように、村では毎年一一月五日に神社で祈禱御湯神楽が行われ、最後に餅投げを行い、後世への忘れ形見としたと記されています(③~⑥)。

梧陵らが広村住人のために作った相互扶助組織
29村方助成積金講一株加入金請取書D3A_0388 (画像はクリックで拡大します) 
29 村方助成積金講一株加入金請取書 一通 明治三年(一八七〇) 和歌山市立博物館
 古田咏処(庄右衛門)・儀右衛門が、村方助成積金講一株分の百両を拠出したことに対し、濱口梧陵(儀兵衛)、濱口東江(吉右衛門)、岩崎明岳(重次郎)が出した請取書です。梧陵(ヤマサ)・明岳(ヤナジュウ)・咏処(ジガミザ)は、銚子で醤油醸造業、東江は江戸でヤマサ醤油を販売していました。豪商に成長した四家は、文化一一年(一八一四)本拠地の広村で、村の安定を図るため、積金講を始めたことがわかります。


(主任学芸員 前田正明)

→濱口梧陵
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夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料の紹介(2)

引き続き、夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」の展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。

Ⅱ 祖父・灌圃と周辺の人びと

 元禄年間(一六八八~一七〇四)に、濱口儀兵衛(初代知直)が銚子(千葉県銚子市)に進出し、醤油醸造業(ヤマサ醤油)を始めます。江戸には出店があり、代々当主は広村と江戸・銚子とを往復していました。五代灌圃(一七七八~一八三七)、六代保平(一七九九~一八五三)のころには、醤油醸造業に加え、貸金業や不動産投資も行うようになり、店の経営は支配人に任せていました。
 灌圃も経営から離れていくなかで、紀州を拠点にして、野呂介石に師事し、絵を学ぶなど文化的な活動を行います。風雅を愛し、庭に梧桐を植えてその亭を碧梧亭と名付け、多くの文人たちを招きました。灌圃が亡くなった時一七歳であった梧陵は、灌圃から少なからず影響を受けていたようです。

梧陵の祖父・灌圃が描いた中国風の風景画
11山水図 濱口灌圃筆D3A_0011  (画像はクリックで拡大します)
11 山水図 濱口灌圃筆 一幅 江戸時代(一八~一九世紀) 和歌山県立博物館
 灌圃(一七七八~一八三七)は、西浜口家(儀兵衛家)の五代目当主で、梧陵の祖父にあたります。文化三年(一八〇六)に家業である銚子(千葉県)での醤油醸造業を継ぎ、天保二年(一八三一)に隠居しました。若いころから絵を好み、和歌山にいることも多く、福蔵寺(湯浅町)の平林無方とともに野呂介石に師事して絵を学びました。介石の画風をよく学んでいますが、山肌の曲線的な質感描写などに灌圃の特徴があります。現存する作品はあまりありません。

野呂松廬が描いた湯浅・栖原海岸の風景画
12菖蒲湾詩画巻 野呂松廬筆D3A_0024  (画像はクリックで拡大します)
12 菖蒲湾詩画巻 野呂松廬筆 一巻 文政一二年(一八二九) 和歌山県立博物館
 野呂松廬(一七九一~一八四三)は、野呂介石(一七四七~一八二八)の甥にあたります。絵は介石に学んだようですが、儒学者としても知られ、天保六年(一八三五)に紀伊藩田辺領の安藤家に招かれています。一時は湯浅に住み、京都で亡くなりました。この絵は、松廬が三九歳の時に描いたものです。松廬は、栖原村で結成された古碧吟社に招かれ、栖原村を訪れています。この時、菖蒲湾(湯浅町の栖原海岸)の風景を描き、自ら漢詩を書いたと考えられます。

福蔵寺の平林無方が描いた中国風の風景画
13秋景山水図 平林無方筆D3A_0015 (画像はクリックで拡大します)
13 秋景山水図 平林無方筆 一幅 文政九年(一八二六) 和歌山県立博物館
 平林無方(一七八二~一八三七)は、湯浅の福蔵寺の住職です。野呂介石(一七四七~一八二八)に絵を学び、特に山水画を得意としました。この絵は筆の先で点のような印をつけ、紅葉の色彩を表現しています。福蔵寺には、この絵と似た「山水図襖」も残されています。無方は晩年の介石を頻繁に訪ねて指導を仰いだらしく、介石が無方のために描いた作品も残っています。無方四五歳の作で、介石在世中の作としても貴重で、介石晩年の画風をよく継承しています。

野呂介石が平林無方のために描いた絵手本
14蘭石図巻 野呂介石筆DSC_8557(巻末) 14蘭石図巻 野呂介石筆DSC_8489(巻頭) 
(画像はクリックで拡大します)
14 蘭石図巻 野呂介石筆 一巻 文政六年(一八二三) 和歌山県立博物館
 野呂介石(一七四七~一八二八)は、和歌山城下の富裕な町人出身で、初め京都の池大雅(一七二三~七六)に師事し、後に和歌山へ戻り、四七歳で紀伊藩士に登用されました。以後、公務のかたわら絵画制作を続け、紀州の実景を題材にした山水図など、多くの作品を残しています。この巻物には、蘭・霊芝・石・竹などが描かれています。簡素でおとなしい図柄ですが、蘭や竹の葉、石の質感描写は的確です。奥書に、無方のために描いたと記されています。

広八幡神社の祭礼で行われる渡御行列を描く
15広八幡神社祭礼行列図T81_0001-t 小(全体) 15広八幡神社祭礼行列図T81_0001-t(部分拡大)

15広八幡神社祭礼行列図D3A_0172(御旅所) (画像はクリックで拡大します)
15 広八幡神社祭礼行列図 一幅 明治八年(一八七五) 和歌山県立博物館
 毎年八月一五日に行われた広八幡神社(広川町)の祭礼では、神社から浜にある御旅所(湯立釜のある場所)まで渡御行列も行われました。この絵は明治八年の祭礼行列を描いたもので、梧陵と懇意であった古田咏処の家に保管されていた可能性があります。行列は白装束の先祓を先頭に、神官・鎧武者と続き、獅子・露払・山伏のあとに楽人・裃を着て笙・篳篥・龍笛を演奏する人がみえます。最後尾は神輿、神主となっています。

広八幡神社の祭礼で楽奏が復活した時の記録
16年々楽方勘定録D3A_0120  (画像はクリックで拡大します)
16 年々楽方勘定録 一冊 文化三~一〇年(一八〇六~一三) 広八幡神社
 中絶していた祭礼での楽奏が、文化三年に復活されました。この資料には、復活した年から七年間の演奏に関わる費用が記されています。文化三年は、①太鼓を借りた謝礼、②和歌山から楽人三人を雇い入れた謝礼、③笙・篳篥・大笛(龍笛)・大鞁(太鼓)の演奏者への謝礼などが記されています。笙の演奏者の一人が「濱口儀兵衛」(灌圃)です。別の記録には楽装束がなかったため、演奏者は麻の裃を着て、神輿のお供をしたと記されています。

広八幡神社の祭礼で使用された管楽器
17笙・篳篥・龍笛DSC_1953  (画像はクリックで拡大します)
17 笙・篳篥・龍笛 三管 江戸時代 広八幡神社
 祭礼での楽奏に使用された管楽器で、いずれも広八幡神社に残されているものです。笙(右)は根元に金属のリード(発音体)の付いた竹を、丸く束ねた形をしています。篳篥(中央)は竹製の縦笛で、龍笛(左)は竹製の横笛で主旋律を担当しました。祭礼での楽奏が復活した文化三年(一八〇六)に、灌圃は笙の奏者の一人として参加しています。復活の機運は以前からあったようで、灌圃は笙・篳篥の稽古を行い、復活した際には自前の笙を持参したようです。

渡御行列での各集落の役割分担を記した帳簿
18八朔定帳D3A_0095  (画像はクリックで拡大します)
18 八朔定帳 一冊 文化一三~万延元年(一八一六~六〇) 広八幡神社
 毎年八月一五日に行われる広八幡神社の祭礼に参加する各集落の氏子衆(西之町・湊之町・柳瀬・金屋・名島・殿村・寺村・中野・宇田・中村・中之町)が、渡御行列でどの役割(御幣・御翳・御弓・御太刀・御神鉾・御長刀・神馬・御宮番)を分担するかを記したものです。毎年役割は交替し、八月朔日(一日)に決められたことから「八朔定帳」と呼ばれました。嘉永七年(一八五四)の大津波の翌年も分担が記されており、祭礼が中断せず行われたことがわかります。

広八幡神社の祭礼で使用された鼻の高い仮面
19鼻高面 DSC_0732 19鼻高面DSC_0735  19鼻高面DSC_0731(箱蓋裏)
(画像はクリックで拡大します)
19 鼻高面 一面 天正一七年(一五八九) 広八幡神社
 「猿田彦仮面」と伝えられる鼻の高い仮面で、シンプルな形をしています。祭礼行列図【15】には、獅子の前に鼻高面を被り、右手にうけ棒、左手に鉾をもつ人物がみえます。面を納められた箱の蓋裏には、天正一七年八月に濱口安太夫が作り、八幡宮に寄進した。祭礼で使って傷んだため、安太夫の子孫である東濱口家六代の吉右衛門(矩美)と西濱口家五代の儀兵衛(灌圃)が、文政七年(一八二四)に修理し宝庫に納めた、と書かれています。

一八四一年ごろ地士であった家の名簿
20 南紀徳川史 巻之百七 一冊 明治三一年(一八九八) 紀州東照宮
 元紀伊藩主の徳川茂承の命令で、元藩士の堀内信がまとめた紀伊藩の歴史です。天保一二年(一八四一)ごろの地士(武士と同じように名字帯刀が許された人)が記されています。このころ、藩への献金で地士に取り立てられることもあり、広村では八人の名前がみえます。このなかに、濱口吉右衛門(六代 矩美)と濱口儀兵衛(六代 保平)の名前もあります。江戸を拠点とする吉右衛門家は、儀兵衛家が銚子で製造した醤油の販売をおこなっていました。


(主任学芸員 前田正明)

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